スワマエのキッチンひふみさんの壁に瀬木監督の新聞コラムが貼ってあった。“虹のパレット”から・・・・瀬木監督には大変申し訳ないのですが、全文を掲載させていただきました。
「大人」教えてくれた 四日市の洋食屋
期末テストが終わると、僕は決まってその洋食屋に立ち寄った。近鉄四日市駅から諏訪神社に向かう狭い参道。参道といっても小さなアーケードで、由来は分からないが、確か以前はライオン通りといった。僕が高校生だった昭和50年代半ば、ライオン通りは、喫茶店や楽器店、洋服、生地、仏具、乾物などの店がひしめき、商品が通路にせり出して人の流れも激しく、賑わいのある通りだった。
学期末になると高校生は半ドンになるため、学生たちはそれぞれのグループで、喫茶店やパーラーに長居を決め込み、どうでもいいようなことを話して夜まで過ごした。
僕の場合は神社の鳥居の斜め前にあった洋食屋が根城だった。店のマスターが豪快で、人間臭く、アニキと呼ぶには年が離れすぎてはいたが、頼りになる存在だった。眉が濃くて彫が深く、映画スターの様な身のこなしで「イカス大人」に見えた。実際にはマスターというより「食堂のおっちゃん」という風情であったかもしれない。だが、社会人が皆、オジサンやオバサンに見えた年頃にあって、マスターだけは違った存在として僕の目に映っていた。
僕はその店でたばこを覚え、酒の味も覚えた。学ランの襟のボタンをはずし、コーヒーをすすった。学校や親、世間のルールに背を向けているというようなカッコよさがあった。他人の悪口を言ったりすると、マスターから「みんな必死で生きとる。そんなこと言うたらあかん」と諭された。マスターとその店が僕に大人というものを教えてくれたのだ。
それから二十数年がたち、僕はこの街で一篇の映画「いずれの森か青き海」(2003年)を撮った。スタッフやキャストを連れて懐かしいその店に食事に行くと、マスターは奮発して松坂牛のステーキを出してくれた。礼を述べ、マスターにスピーチを促すと、意外なほど照れて短いエールをくれた。うれしかった。忘れかけていた故郷の懐かしさが、僕の中によみがえってきた。
だが、映画撮影から間もなく事件が起こった。近隣の失火から延焼し、マスターの店が廃墟となってしまったのだ。友人から連絡を言受けた僕は急きょ帰省し、火災の現場に駆け付けた。ちょうど現場検証が行われていて、警察や消防関係者の中に、ぼうぜんと立ち尽くしているマスターの姿があった。
マスターは僕を見つけて歩み寄り、小さくつぶやいた。
「あんたに言うても仕方ないが、助けてくれ、何とかしてくれ・・・・」初めて聞いた弱音だった。
何とかしてあげたいが、何もできない。何もできないのに、何とかできるとは言えない。僕はどんな慰めの言葉も見つけることができなかった。無力感に打ちのめされて。僕はその場を後にした。同級生や映画にかかわった仲間に声をかけて、カンパを募ったが、それが僕にできる精一杯のことだった。どこか後ろめたい気持ちを抱えたまま、僕はしばらく故郷を離れ、以来マスターに会うことはなかった。
数年前、マスターの訃報を耳にした。愛情を注ぎ、思い出が詰まった店を失い、失意の中でこの世を去ったのではないかと思うと心苦しかった。だが、それ以上につらいのは、あの時、気の利いた慰めも言えず、僕を育ててくれた店への感謝の言葉も添えなかったこと、そして、それを伝える相手がいなくなったという現実だ。マスターの顔と声を思い出す度に心が張り裂けそうになる。
今、あの洋食屋は再興し、当時と同じ店名で営業している。