老夫婦(笠智衆と東山千栄子)の空気枕をめぐる会話は、二人の仲の良いほほえましい日常を描き出しています。しかし、同時に空気枕をしまったのはお前だ、といった自分勝手な思い、自己中心的な思いに戒めを与えているように考えられます。
ここでは、空気枕はカバンの中でその姿を一切現しません。あらわさないからこそ、空気枕は、老夫婦の会話する姿をじっとみつめているようにも捉えることができるのです。
このように小津監督は、静物や風景をとおして、さめた目線で人間の日常をみつめているように感じられることがあります。
吉田喜重監督は著書「小津安二郎の反映画」現代岩波文庫でこのように書いています。
その意味ではむしろわれわれを正確に見ているのは事物の側であり絶えず事物としての眼差しをわれわれに注いでいたのである。そして小津さんがほほえましい老夫婦のエピソードとして、なにげなく描いた空気枕の話は、人間のうかつさ、その見ることの曖昧さを暗黙のうちに啓示するものではあったが、それは同時にこの世界がおびただしい事物の眼差しによってみちあふれ、われわれはそれに覆いつつまれて生きているかぎり、人間は決して孤独ではないという至福の歓びにも似た、神の摂理を伝える黙示録的なメッセージとして読み取ることもできたのである。
小津監督は、構図に対しても凝る人でした。
このシーンで気付くことは、旅立ちを送り出す次女の京子と老夫婦の三人が、まったく同じ姿勢で並んでいることに気付きます。この傾きの相似形は、しばしば見受けられるものです。
ここでは、空気枕はカバンの中でその姿を一切現しません。あらわさないからこそ、空気枕は、老夫婦の会話する姿をじっとみつめているようにも捉えることができるのです。
このように小津監督は、静物や風景をとおして、さめた目線で人間の日常をみつめているように感じられることがあります。
吉田喜重監督は著書「小津安二郎の反映画」現代岩波文庫でこのように書いています。
その意味ではむしろわれわれを正確に見ているのは事物の側であり絶えず事物としての眼差しをわれわれに注いでいたのである。そして小津さんがほほえましい老夫婦のエピソードとして、なにげなく描いた空気枕の話は、人間のうかつさ、その見ることの曖昧さを暗黙のうちに啓示するものではあったが、それは同時にこの世界がおびただしい事物の眼差しによってみちあふれ、われわれはそれに覆いつつまれて生きているかぎり、人間は決して孤独ではないという至福の歓びにも似た、神の摂理を伝える黙示録的なメッセージとして読み取ることもできたのである。
小津監督は、構図に対しても凝る人でした。
このシーンで気付くことは、旅立ちを送り出す次女の京子と老夫婦の三人が、まったく同じ姿勢で並んでいることに気付きます。この傾きの相似形は、しばしば見受けられるものです。