諏訪駅前の“諏訪百貨店”は通称“諏訪マーケット”と呼ばれ、戦後、にわかに建てられた集合店舗です。中は“コ”の字型になっていて常設市場の様相でした。奥の八百屋でスイカの切り売りを食べた記憶があります。諏訪駅移転の後、昭和35年12月20日に解体工事が始まり、昭和37年、諏訪百貨店として新しくオープンします。
昭和三十三年七月十八日、諏訪駅が立ち退いた後を東に見る。諏訪劇の看板をくぐってまっすぐ行くと、右に三泗百貨店がある。三泗百貨店前に並んでいた線路を背にした小さな店の並びは、取り壊される。キタオカの角に堀田美容室。その向こうに少しさがって、草野洋服店が建つ。堀田美容室の建物は現在のままだから、草野洋服店が前へ出てきたことになる。一番街の通りが作られつつある頃だ。
正面に諏訪劇場、左に弥生館と三重劇場の看板。駅前は映画の看板だらけだった。凌霜書房の奥さんが外を見ている。
昭和三十三年七月二十一日。諏訪駅前にあった、スワマーケットの凌霜書房前の様子。東向き、三泗百貨店方角に撮られたもの。
すでに前の諏訪駅は移転済みで、三十七年九月の四日市スワ百貨店開店に向けての建て替えの話が進んでいるはずだ。
かごを持ったおにいちゃんが通る。出前の帰りか?凌霜書店の隣にはゑびす餅の看板、地下水で冷やされたジュー
ス。諏訪劇場の看板に片岡知恵蔵の新撰組とある。弥生館では若い野獣と駅前旅館が上映中。この道は八王子線沿いにゆっくり西南へカーブしていて近鉄四日市駅前に出る。
昭和三十三年二月二十三日。諏訪百貨店にあるマルモ物産の店頭。この頃すでに諏訪駅は取り壊されて店の前には空き地が広がっていたはずだ。甘酒の素の看板が見える。鮪味付け四個九十円?鮪の醤油付けしたものを焼いて食べたのだろうか?
夕方、店の前で子供を負ぶったお母さんと、店の兄ちゃんが立ち話をしている。
「あきちゃんなあ、四月に結婚するんて」
「へえ、もうそんな歳になったんかいな」
「まだ子供やと思とったのになあ」
「ええ鯵の干物入ったで、買うてって」