候孝賢(ホウ・シャオシェン)は、1947年中国広東省出の家族に生まれた台湾の監督です。1歳の時台湾へ移住。花蓮、新竹から鳳山に移って、ここで少年時代を過ごしました。1959年(12歳の頃)に父親を、1965年に母親を亡くしています。
1965年高雄在住の時、兵役となり1969年終えています。1980年脚本家、助監督を経て監督としてデビュー、多くの作品を発表したのち1980年代台湾新潮流である台湾ニューシネマ(新電影)を担った代表的な監督として注目を集めます。
「非情城市」
1989年、終戦直後の九份(ジォウフェン)・基隆(キールン)を舞台に二・二八事件を扱った「悲情城市」を監督。この作品でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞しました。台湾では1987年戒厳令が解除されたばかりで、上映が危ぶまれましたが無事検閲を通過し、低迷の台湾映画界では異例の大ヒットとなりました。金馬奨最優秀監督賞・最優秀主演男優賞を受賞しています。
ホウ・シャオシェン監督は、小津安二郎を敬愛しており、2003年 小津生誕100年を記念した“珈琲時光”を製作しています。
「非情城市」
二・二八事件という言葉が出ましたが、台湾は日清戦争以来日本の占領下にありました。「悲情城市」という映画は、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送から始まります。日本の敗戦により統治が終わり、独立と自由の時代が来るはずでした。ところが、連合軍から委託を受けた蒋介石率いる中国国民党が進駐し行政を引き継ぎました。大陸から来た軍人や官僚は質が悪く(国共内戦の影響で優秀な人材は大陸の前線に送り込まれていた)、強姦、強盗、殺人を犯すものが居て、しかも、これらの行為は罰せられることは少なく、マスコミに報じられることは固く禁じられたのです。台湾国内には本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との対立が広がり、台北でタバコ草を売っていた本省人の女性が役人に暴行を加えられたことがきっかけで二・二八事件が起こります。そして、デモ隊の蜂起と政府側による発砲事件は台湾全土に拡がることになるのです。鎮圧の為発令された戒厳令は1987年まで続くことになり、多くの台湾人が投獄、処刑されました。この事件の本省人の犠牲者は1万8千~2万8千人とも言われています。「悲情城市」は、こうした時代背景の中で翻弄される一家族を静かに描いたものです。
「非情城市」
こうした時代背景を知ったうえで「非情城市」を鑑賞すると、画面には直接出てこない台湾の悲劇がよくわかります。基隆の遠景が印象深いのも、監督が愛情をこめて撮っているからでしょう。
「非情城市」