過去、稚拙のブログ“温故知新”にも書いたが、諏訪公園内にあるスワパズルパーキングの場所に“四日市幼稚園”が建っていた。母園である(ボエ~ン)。空襲で焼け残った演舞場(①より③の部分)に、保育室④と管理室⑤、そして、昭和27年、2階建ての保育室⑥が建て増しされた。
写真が、正門横に建つ保育室、この2階(図の一番左が2階部分)で卒園式が行われた。すぐ西が春告園(赤線)。道の西にカトリック教会があり、教会の築山から南を望むと港楽園(赤線)の竜宮城が見えた。飲み屋に囲まれているような繁華な場所に幼稚園があったのだ。ここの砂場はひどかった。砂の中から犬のフンが出てきたりした。O-157どころではない。現在であれば問題になるところだ。
よく読んでいただいた本
幼稚園に通う1年間(昭和29年10月に大協石油のタンク大爆発事故が起きた)、おふくろは弁当を作った。店をしながらの弁当作りは負担だったと思う。ほとんどが前日のおかずを温め直して弁当箱に詰めた。だから、お昼はあまり楽しみではなかった。卵焼きにスターSハムが最高のおかずだった。登園すると先生はみんなの弁当を保温器に入れ温める。様々な匂いが入り混じり独特な臭気を放っていた。今思うと、お弁当を温めてもらえるというのは、当時、珍しいことではなかっただろうか。
右に出店が見えます
公園西側の春告園
幼稚園から帰ると、再び公園へ。公園と諏訪神社が街の子供の遊び場だった。南側に出店(でみせ)が二軒出ていて、各々おばあさんが駄菓子を売っていた(イイおばあさんとワルイおばあさんと呼んでいた)。
10円握って出かける。5円で“わらび餠”を注文すると、指先のない軍手でビニール袋を破り黄な粉をかけてくれた。残りでくじを5本引く。紙の束から5枚引き抜き、横にあるバケツの水につける。“スカ”の字が白く浮き出る。丸い錠剤型のラムネが1個。1等2等になると、立体に絵が浮き出た大きなラムネが貰えるのだが、当たったためしがない。おばあさんが密かに笑う(・ったかに見えた)。
子供が多かった。あちこちで子供が群れて遊んでいた。