数か月前のこと、某氏からお尋ねをいただいた。「昔、湯の山線に“ほりき”という駅があったのを知らないか?」その時は“わからない”という返事で済ませた。
最近、図書館移転の話が出ている。友人の、「移転もいいが、図書館あたりに駅を造れば文化会館へのルートも便利になる」という言葉を思い出した。実際、図書館の南側に駅があったのだ。
これを知ったのは、故岡野繁松先生が中心になって発行された“旧四日市を語る”を見ていた時だった。昭和十年から十五年のころを再現した手作り地図で、諏訪駅(戦前は旧東海道筋にあった)から西へ延びた3本の線路、関西急行(近畿日本鉄道)は右へカーブして名古屋へ、左へカーブした三重鉄道(あすなろ鉄道)は、内部八王子方面へ、そして西へ延びた三重鉄道(湯の山線)は火葬場の“ほりき駅”へと伸びていた。
“旧四日市を語る”にこんな記載がある。
火葬場は常盤村久保田にあり、当時(昭和十年ころ)の四日市の西端にあった。周辺はほとんど田圃で、西には芝田、久保田、北には堀木の集落が田圃の向こうにひっそりと点在していてその向こうには西の山が大きく連なっていた。火葬場はその田圃の中にポッンと建っていた。すぐ南を三重鉄道の湯の山行きの電車が通り小さなホームと掘立小屋のような待合室が建っていた。
田畑の中に建つ、のどかな無人駅のような建物が想像される。その駅は、火葬場を利用する人が殆どだったのだろう。
家や寺で葬儀が済むと死者を納めた棺を霊柩車(手押し車?)に乗せ火葬場へと向かった。この葬式の列は、殆どが西町を西へ行くか、弥生館前(柳通り)を通る道を西にとった。弥生館から西新地の狭い通りを抜けると田圃が目の前に広がり路は農道と思われる荒れた道になる。雨上がりは車の輪がくい込み、乾けば埃っぽく轍が深く残っている。この道を西へ行って、伊勢電の変電所を横に見ながら踏切を渡ると火葬場が田圃の間に見える。さらに西へ進むと、農道そのものになる。道はいっそう狭くなる。ここを三昧道とも言った。(焼き場のことを“さんまい”と言った:三昧場)狭くなる手前を南へ直角にまがるとすぐ火葬場の門に突き当たる。朽ちかかった門柱と堀に囲まれた中に火葬場はあった。
映画の一シーンのような光景である。
現在の市立図書館が建っている場所が火葬場の跡地である。現在の図書館から北へ行くと湯の山街道との交差点がある。この交差点がやや曲がっているのは直角にまがった道を大きく改造した名残である。その当時、火葬場へ行くことを“ほおりき”(“ほりき”の間違いではないか?)へ行くといった。