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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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“東京物語”三部作 その2

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そして、“東京家族”の最後。次男の昌次(妻夫木聡)と恋人の紀子(蒼井優)は、周吉(橋爪 功)の世話をした後、東京へ帰る時を迎えます。

「私達 1時のフェリーで帰りますから 長い間お邪魔しました お父さん どうぞお体大切に そして お母さんの分も長生きしてください じゃあ」

「ちょっと」

「はい?」

「ま 座ってください」

「紀子さんと呼んでいいですか?」

「はい どうぞ」

「あんたは いい人だね」

「ええ?」

「母さんが昌次のアパートに 泊めてもろうた あくる日 幸一の家に戻ってきて“よかった よかった 昌次はこれで安心”そう言うて その訳を私に話す前に 死んでしもうたんじゃが 母さんの気持ちが 今なら私に よう分かります 幸一や滋子たちがバタバタと東京へ帰ったあと 3日も4日もいてくれて 何ひとつ嫌な顔をせずに 気持ちよう私の世話をしてくれて 本当に ありがとう」

「気持ちよくなんて そんなことないんです 本当は私 ここに来たの 後悔したくらいなんですよ なんだか窮屈だし 仕事も気になるし 嫌な顔一つせずになんて そんなの・・・そんなの嘘です」

「正直じゃのう あんたは 本当に いい人だ」


映画“ボクは坊さん”

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映画“ボクは坊さん”は、四国八十八カ所霊場、その五十七番目の札所“栄福寺”の住職となった若い僧侶(伊藤淳史)が、様々な体験をしながら成長していく姿を描いた作品です。

“三丁目の夕日”のプロデューサー安藤親広氏が手掛けているとあって、(中ほどから急降下するけれど)最後の最後で希望が持てる、いい作品となってオリマシタ。

最後、総代であった老人(イッセー尾形)のお葬式の席で、光円さんはこんなお話をします。

「ぼくは 生まれる前の感じと 死んだあとの感じって 似てるんじゃないかなって思うんです そして それが いちばん普通の状態なんじゃないかなって だから 生きているっていうこの状態は とても短い すごく特殊な時間なんじゃないかなって そんな気がします だって 人は何で 生まれたときに泣くんでしょうか? もしかしたら 穏やかな眠りから覚まされてしまうかもしれない そしてまた死をもって 穏やかな眠りへと帰っていく だとしたら 生きている時間なんて お祭りみたいなものかもしれない そして長老は そのお祭りを経て帰って行った だから僕はその長老に お疲れ様でしたって 言ってあげたいんです じゃあまたって 笑顔で・・・」

ムム・・短いお祭りの時間は、大切にしなければなりません。そして、こんなことも云っています。ここのお寺は真言宗。般若心経の“空(くう)”の心についてです。

「・・・ブッダが答えた 自我に固執する見解を打ち破って 世界を 空なりと感ぜよ」

ひろく ひろく もっとひろく これが空の教えなり・・・

第4回 よっかいちお菓子フェスタ開催決定!

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第4回 よっかいちお菓子フェスタが5月22日開催されます。ぜひお越しください。

四日市諏訪商店街振興組合は、熊本宛、震災義捐金を送ることにいたしました。

中日新聞四日市支局にて、義捐金を手渡す吉田理事長です。

男ハツライヨ!

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伊藤淳史監督の“ボクは坊さん”で、理屈っぽい檀家総代役をしていたイッセー尾形が、深川栄洋監督の“先生と迷い猫”では学校を定年退職し妻に先だたれた頑固な老人を演じている。この作品の終わり方が良い。生前猫好きだった妻、しかし森衣は猫嫌い。それでも一人暮らしのところへノラはやってくる。「妻のことを思いだすから、来ないでくれっ!」と叱り飛ばしたらノラは来なくなってしまった。それから森衣は、猫を探しはじめる。野良ネコ捜査の中でいろんな人との出会いがあり(“神去りなあなあ日常”の染谷将太、ピエール瀧、カンニング竹山、岸本加世子、嶋田久作など)徐々に猫に気が引かれていく。

最後。夜遅く、探し疲れて真っ暗な我が家へ帰った森衣は、玄関に座り込みまどろむ。その時、光射す庭の方から妻の呼びかける声が聞こえる。この幻想シーンは、山田洋次監督の“息子”とよく似ている。三国連太郎が息子に会いに出かけ、誰もいない雪深い我が家へ帰ってくる。そこで昔日の我が家の幻を見る。

 

子供たちが離れて行き、妻に先立たれた男の哀愁が表現されていることで、この二作品は似通っているけれど、どちらも救われる最後(“息子”は、息子の結婚)となっているのが、なんとも清々しい。

四日市追分

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5月の朔日恵比寿は、連休日曜日の心配をよそに好評だった。新鮮野菜100円市も大根・ホウレンソウ・菜っ葉・ニンジン・たけのこ・新玉ねぎと揃い、売れ行きは好調だった。日曜日にもかかわらず北勢地域若者サポートステーションのみんなの手を借りることが出来て感謝デアリマス。

遅くなりましたが“商工春秋5月号”東海道名所之内 四日市追分より紹介させていただきます。

追分の町を大名行列が整然と進む。ひときわ高くそびえる鳥居が、そばに立つ桜の色と同調して、この画面によく映えている。鳥居や桜の高さを目立たせ、本来威厳のあるはずの行列を小さく見せており、縦長の画面を効果的に使った構図が面白い。

刊行された文久三年は、将軍家茂の上洛の年であり、このシリーズは、上洛に因んで作られたものである。従って、馬上の人物はい家茂その人となるが、実際に追分を通る際は、乗馬ではなかったようだ。実際の風景を写したものではなく、あくまでイメージで描かれたものである。右に「あたりや」と書かれた暖簾が見えるが、これは初代広重の作品にも登場する饅頭屋である。

      (市立博物館学芸員・田中伸一)

“七人の侍”を語る

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文春ムック スターの肖像” “映画史上最強の作品「七人の侍」はこうして生まれた!”より

平成3年12月号の文芸春秋で、黒澤明、山田洋次、井上ひさしのビッグ鼎談が掲載されていた。“七人の侍”の裏話を語り合ってみえるのだがこれが面白かった。

井上「たとえば勘兵衛(志村喬)というリーダー役がいます。彼は一度は百姓の申し出(野武士から村を守ってほしい)を断るんですが、百姓が寝泊まりしている木賃宿で、人足に「お侍、この抜け殻どもは稗食ってるんだ。自分たちは稗食ってお前さんたちにゃ白い飯食わしてるんだ」といわれて「よしわかった・・・もうわめくな」という。百姓の味方をしてやろうと決意するわけですね。で、僕の一番好きな「このめし、おろそかには食わぬぞ」というところ、あそこはいつ見ても泣くんです。

そして、もうひとつ、井上ひさしさんの言葉から

井上「戦争が終わって、民主主義が入ってきて、日本に憲法ができて突然、世の中は「平和」と民主主義全盛、子供ながらに途方にくれた。そんな時あの水車小屋のお爺さん、儀作さん(高堂國典)といいましたか、あの人こそ日本の国の将来だとはっきりわかったのです。つまりふだんは人の離れた所でコツコツ生きているんですけれど、いざというとき村の人たちに頼りにされている。カネは持たない、力も強くない、でも危機に陥ったときに知恵を出す。世界中がもめて困ったとき、東洋の端っこの日本に立派な憲法というものがあってそれが指針になる。戦後民主主義になった日本の生きるべき道が、、ある意味で水車小屋の儀作という長老に現れている気がしたんですね。

“七人の侍”をもう一度語る

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改めて観なおした、黒澤明監督の“生きる”と“七人の侍”は実に傑作である。“七人の侍”の構図一場面一場面は計算尽くされていて、監督の怒鳴り声に従って、役者は被写体として何センチの位置まで支持されていたと思われる。

さて、晩年の黒澤作品に魅力がなくなったのはなぜか?“どですかでん”“デルスウザーラ”“まあだだよ”“夢”と、我々の期待からは遠く外れたものとなった。

吉村英夫氏は「黒澤明を観る 民の論理とスーパーマン」草の根出版会 でこう書いてみえる。

 “生きる”から“七人の侍”のシナリオを書いた黒澤監督や橋本忍の目線は、領主や支配者の側ではなく、主君を持たない浪人や、あるいはまだもっと「下」とされる農民=民衆と同一の高さにあることは確かである。民の論理の立場を明確にしつつ、決定的に映画的高揚を想像することに成功した。ところが、民の視点は、「七人の侍」で足踏み状態になってしまったのである。

そして、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」と再び映画的高揚をもって旺盛な映画づくりにとりかかったが、映画はめっぽう面白いのに、他方ですっぽりと低い目線と民の言い分はどこかへ置き忘れ去られていた。逆に民衆不信と英雄待望論から生まれるスーパーマンの論理を身にまとうことになってしまうのである。黒澤にととって後退になったと言わざるを得ないのは残念である。「赤ひげ」完成後、黒澤は、自分の目線が高くなってしまったことに気づき、三船をスーパーマンにし過ぎてにっちもさっちもすすめなくなったことを自覚し、民の論理が欠落してしまったことに思いいたったようだ。

五年後、「どですかでん」で彼は日本映画界に復帰する。だが皮肉にも「どですかでん」は、映画的高揚を想像する術を完全にどこかへ置き忘れてしまっていた。その後、五年に一度、やっとのことでうみだす黒澤映画は、スーパーマン路線に戻ることはなく、目線も低くしていくのに、引き換えに映画的高揚とは大きくかけ離れたものしかつくれなくなっていったのである。

“喜劇団体列車”と“男はつらいよ”

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山田洋次監督を“映画こそ生きがいの「映画バカ」”と称して、吉村英夫さんは著書「山田洋次と寅さんの世界」大月書店でこう書いてみえる。

山田にはすべてが映画の題材にみえる。例えば「シェーン」から「遥かなる山の呼び声」、「幸せの黄色いハンカチ」はアメリカのフォークソングから、「ローマの休日」から「男はつらいよ」31作「旅と女と寅次郎」を、俵万智短編集「サラダ記念日」から第41作を、第18作は徳富蘆花の「不如帰」のパロディである。

昭和42年11月公開、東映の「喜劇団体列車」を観てオヤ?と思った。内容が「男はつらいよ」のパターンなのだ。国鉄職員の山川彦一(渥美清)はまじめだけれど計算が苦手でおっちょこちょい、助役試験に何度も落ちている。母親役はミヤコ蝶々。迷子の世話で未亡人の佐久間良子に片思いをするが、最後は振られてしまう

監督は瀬川昌治氏で、42年6月に「喜劇急行列車」、43年1月に「喜劇初詣列車」を撮っている。そしてこの年、フジテレビで「男はつらいよ」が始まっている。寅さんは最後に奄美大島へハブ取りに出かけ噛まれて死んでしまう。これに視聴者から抗議が殺到し、44年8月に、映画「男はつらいよ」第1作が公開されることとなる。

つまり、山田監督は東映の列車シリーズから「男はつらいよ」のヒントを得た、とみる。ただし内容の面白さは山田監督が上である。生真面目な国鉄職員よりテキヤ役を、渥美清は水を得た魚のように生き生きと演じている。シリーズ初期はかなり乱暴な性格が目立つが、渥美清に合っていたのだろう。

こんなエピソードを知った。ロケ現場近くで不良学生が数人騒いでいた。渥美清は、そこへ行くと「迷惑だから退いてくれ」と話す。学生は静かに退いていった。余程ドスの効いた話し方だったのだろう。

さまざまな題材をヒントとして、山田作品らしい映画を作り上げる。落語的センスがあり、感動と思いやりのある作品が仕上がる。


フジテレビ“男はつらいよ”

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“おかしな男 渥美清”小林信彦著 新潮文庫より

昭和42年の渥美 清の主な仕事は、東映の<列車>シリーズで、翌年にかけて「喜劇・急行列車」「喜劇・団体列車」「喜劇・初詣列車」と三本作られている。のし上がってきたころの意気軒昂たる彼だったら、絶対に出演しなかったものだと思った。<渥美清の映画は当たらない>という評判に対して、彼の表現を用いれば、<自分を忘れられないようにしておく>映画だったのだろう。とあった。やはりヒットしなかったのだ。

前回、山田洋次監督は<列車>シリーズをヒントに“男はつらいよ”をつくったと書いたが、原型は、山田監督の昭和39年作品、ハナ肇の“馬鹿まるだし”にすでにあった。

この終わり方(失恋して、立ち去る)は、山田洋次の名前をはじめて一部の人に知らしめた「馬鹿まるだし」のラストと非常によく似ている。惨めな死に方をしたハナ肇の幻が未亡人(桑野みゆき)に挨拶に来るシーンが「馬鹿まるだし」にあり、そのセンチメンタリズムが快いのだが、テレビ版「男はつらいよ」もほぼ似た終わり方をする。

フジテレビ“男はつらいよ”

昭和43年10月から翌年3月まで放送

奄美大島で、寅はハブに噛まれて死ぬ。

ヒントにしたのは<列車>シリーズの方でした・・・か???

渥美清と映画“運が良けりゃ”

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フジテレビの“男はつらいよ”が始まる4年前、渥美清は山田洋次監督の“運が良けりゃ”の最後に特別出演している。江戸時代、長屋の金貸し婆が、餅といっしょに金を呑み込み死んでしまう。このことを知った隣の住人ハナ肇が、死体を火葬場に持ち込んで灰の中から金を取り出そうとするのだが、この火葬場の番人が渥美清である。小林信彦は“おかしな男 渥美清”でこう記している。

何ともいえない扮装、もじゃもじゃの頭で、鼻をクンクンいわせながら(私にはズーズーと聞こえる)「上焼きか、それとも並み焼きか」と言い、「火葬札、あるのか?」とたずねる。

金貸しの婆さんの死体を焼いて金をとろうとしているハナ肇たちは、そんなものを持ってない、うるさい奴だというので、近くの杭に縛ってしまう。

勝手に火葬にするハナ肇たちを見ていて、気味の悪い男(渥美清)は、「焼けた、並み焼き上がり!」と縛られたまま言い、そのまま杭を抜いて歩き、へらへら笑っている。

ハナ肇たちを<食ってやろう>と言う気持ちがはっきり出た怪演だが、何度観ても気分が悪くなる。やり過ぎである。

はたしてやり過ぎだろうか?と私は思う。そもそも焼いた死体の中から金をとりだそうとしている異常な場面で、ぎらっと光る演技を見せて<食ってやろう>と考えたら、これぐらいの<怪演>で良かったと思う。

渥美清は、自分が善人役では受けないことを知っていた。

第4回 よっかいちお菓子フェスタ 開催

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お天気に恵まれ、本日は「よっかいちお菓子フェスタ2016」が開催されました。ユマニテク専門学校様のマジパン体験コーナー

青山里会様のブース

魅力ある内容であれば、これだけ大勢の方に出かけていただける。ありがたいことです

大きなキーワードは、子どもさん でしょうか

ご協力いただいた皆様に、ひたすら感謝です。ありがとうございました

続 男はつらいよ

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フジテレビの「男はつらいよ」で、ハブに噛まれて死ぬ寅次郎に抗議が殺到した翌年(昭和44年8月27日)山田洋次監督は映画「男はつらいよ」を完成、渋る松竹を押し切って公開した。これがヒットした。

第1作は、さくらと諏訪博との結婚。そして、御前様の娘、冬子(光本幸子)に振られる物語だった。初めのマドンナと思いきや、実はフジテレビで佐藤オリエが最初のマドンナを演じている。寅次郎の恩師 坪内散歩(東野英治郎)の娘が夏子(佐藤オリエ)である。冬子に夏子なのだ。内容も、テレビ版「男はつらいよ」を繰り返すように、散歩先生との出会いがあり、娘の夏子に片恋をし、先生が亡くなり、寅は捨てられた母との再会をしたりしている。

この頃の寅は、やくざっぽく、乱暴で、ハチャメチャである。水を得た魚のように渥美清は生き生きと車寅次郎を演じている。

“谷よしの”という女優さんをご存知か?山田監督に気に入られているとみえて、“男はつらいよ”シリーズの36作でチョイ役を演じている。そして、この作品では珍しく二役を勤めている。大発見!と喜んでいたら、ウィキペディアで“患者の付き添い”と“葬式の客”と紹介されていた。

そして、失恋のときが来る。佐藤オリエの彼氏は、藤村薫という医師役の山崎努である。この頃の山崎努は当然だが、若い。

最近になったようやく観た、滝田洋二郎監督「おくりびと」(平成20年)では、NK(ノウカン)エージェントの社長を個性的に 渋く演じている。

葬儀屋の宣伝か!と思っていたら、とても良い作品だった。

映画“おくりびと”

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「おくりびと」を撮った滝田洋二郎監督は、富山県高岡市出身である。高岡といっても近年合併した旧福岡町で、高岡の外れにあたる。監督は最近、短編で高岡市のコマーシャルをつくった。高岡市に働く外人青年が日常の中でさまざまな地場産品に触れていく物語で単なる観光宣伝に終わってないということだ。

四日市もストーリー性を持つ短編で、街を宣伝してはどうだろうか?“藁の盾”でトラックが暴走したり、“末広橋梁”でゴルゴ30がライフルを発射したり・・・。

“おくりびと”の原作は、青木新門著の「納棺夫日記」で舞台は冨山だが、映画では山形となっている。

「納棺の手引き」が撮影された酒田港座は、2002年に閉鎖されていたが、この映画により2009年に映画や催事会場として再開された。(山形県酒田市日吉町1丁目)

“鶴の湯”は現在、庄内映画村に移築。主人公、小林大悟と美香の住む“スナック和”は「上野コンチェルト館」として公開されている。(山形県上山市栄町1丁目)

ユニークな建物である旧割烹小幡だった“NKエージェント事務所”は2009年より内部が一般公開された。(山形県酒田市日吉町2丁目)

映画のご縁が、街の活性化に結びついたよい例である。

ちなみに、映画ロケ誘致を逃した冨山県では、県議会の席で担当課長が後悔の答弁をした。

映画“おくりびと”2

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前回“おくりびと”の建物写真を追加いたします。

閉館の憂き目から立ち直った、酒田港座の内部。

“鶴の湯”の外観と内部です。

二人の住まいであった旧“スナック和”の内部

NKエージェント事務所である“旧割烹小幡”の内部 見学コースになった

 

諏訪振興組合総会開催

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平成28年5月26日午前10時30分より、四日市諏訪商店街振興組合 第41回定期総会が開かれました。

今年度は、スワセントラルパーキング駐車場の耐震設計に取り組むこととなり、総会前に鹿島建設様より説明がありました。前回の総会では、耐震診断結果の報告をしていただき、恒例の“おお揉め”となりましたが、今回は質問もなく、組合始まって以来の順調な総会となりました。まさに時11時45分。定刻より早い終了となりました。

来賓の方から(松阪市居住)四日市は、三重県一の都会である旨のお褒めの言葉をいただきましたが、駅前中心商店街のハシクレトシテ答えるべく努力をしていく大切さを、ひしと感じました。


第1回“おくりびと”上映決定

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6月24日(金)午後6時30分より(訂正します  午後6時より上映です)“おくりびと”の上映会を行わせていただきます。一度ご覧になった方も、今一度ご鑑賞ください。お待ち申し上げております。

入場無料 会場は いつものスワセントラルパーキング2階会議室です。

「あいつ 今までで いちばん きれいでした 本当に ありがとうございました」

「夫婦ってのは いずれ死んで分かれるんだが・・・先立たれるとつらい きれいにして 送りだした」

「東京から 山形の田舎にもどって二ヶ月 思えば なんともおぼつかない毎日を生きてきた 僕は 本当にこの仕事で やっていけるのだろうか」

「微笑んでいる顔をみて 思い出したんです あー おいの子だのう やっぱ あいつは おいの子だのうって 本当にありがとうございました」

「石ぶみ・・・昔さあ 人間が文字を知らなかった大昔 自分の気持ちに似た石を探して 送ったんだって」

「行ってあげて おねがい お願いします 最後の姿を みてあげてよ」

吉村先生とのご縁デス

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5月中旬のこと、吉村英夫先生から電話が入る。毎日新聞に掲載のコラムが6月は当番になっている、ついては取材したいとのこと。断りきれずに承知した。

そこで5月下旬、お話をさせていただき、この記事が6月4日付の新聞に載った次第です。

5年間続けてきた映画鑑賞会、ボツボツ潮時かな?と思っていた矢先のことで、これで止められなくなった。元気をいただいた先生のおかげである。

6月24日は“おくりびと”そして、7月22日は吉村先生推薦の“ローマの休日”を上映予定している。この二作品、ジャンルはバラバラですが、どちらも三重県視聴覚ライブラリーさんのお世話になる。感謝!

“おくりびと”は8年前公開の作品で決して古くはないが、肉親のことが思い起こされ感涙した等の声が聞けて、なかなか好評である。

新しい切り口の作品に、初めての方が会場に足を運んでいただけるとうれしいが・・・。さて

 

“おくりびと”の監督に聞く

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映画会の常連さまから“人民中国”という雑誌をお借りしました。

ここに、第6回北京国際映画祭の審査員に招かれた“おくりびと”の監督 滝田洋二郎氏が、インタビューに答えた記事が掲載されていました。

日本は人の死を忌み嫌う傾向がある。作品の主人公は死体と交流する人で、これは多くの日本人が受け入れたくないものでした。人々はみな自分が将来死に直面することを見たいとは思わず、これを避けたいと思うのです。しかし死は実は身近な生活の中でいつでも起こり得ることですが、人々はやはりこれが自分から遠く離れていてほしいと思っています。このため、日本ではこの作品のテーマは禁忌となっています。作品は出来上がってから一年余り、ヒットしそうもないと、どの会社も公開しようとはしませんでした。

 2001年のアルカイダによるニューヨーク テロ事件や世界経済の悪化、自然災害など不安要因が次々と起きて、人々は何を信じていいか分からなくなってきました。こうした時代背景の下、いったいいかに家族、友人、愛する人と付き合っていけばいいのか?自分が生きる意義は何か?人は泣きながらこの世に生まれ、泣きながらこの世から去っていきます。人の終局の意義はどこにあるのか?人生はたやすくはないが、どの人も「生きてよかった」と言います。この作品は温かさに満ちた物語でこうした問いかけに答えていると思います。

寅さんの啖呵売 口上!

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けっこう毛だらけ猫灰だらけ お尻のまわりはクソだらけってねえ タコはイボイボ ニワトリゃハタチ いも虫ゃ十九でヨメに行くと来た 黒い黒いは何みてわかる 色が黒くてもらい手なけりゃ山のカラスは後家ばかり ねぇ 色が黒くて食いつきたいが あたしゃ入れ歯で歯が立たないよときやがった どう? まかった数字がこれだけ どう? 一声千円といきたいなオイ! ダメか? 八百!六百!ようし 腹切ったつもりで 五百両と もってけ!

 

物の始まりが一なら 国の始まりは大和の国 泥棒の始まりが石川五右衛門なら 人殺しの始まりは熊坂の長範 スケベエの始まりは隣のオジサンてぐらいのもの 続いた数字がふたァツ 兄さん寄ってらっしゃいよは吉原のカブ 憎まれ小僧 世にはばかる 日光 ケッコウ東照宮 三で死んだか三島のお千 お千ばかりが女子(おなご)じゃないよ

四谷 赤坂 麹町 チャラチャラ流れるお茶の水 イキな姉ちゃん立ちションベン 白く咲いたかユリの花 四角四面は豆腐屋の娘 色は白いが水臭い 一度変われば二度変わる 淀の川瀬の水車 だれを待つやらくるくると ゴホン ゴホンと浪さんが磯の浜辺でねえあなた 私はあなたの妻じゃもの 妻は妻でも阪妻よ 昔 武士の位を禄(ろく)という 後藤又兵衛が槍(やり)一本で六万石 ロクでない子供が出来ちゃ いけないってんで教育資料の一端として買っていただきましょう この英語の本 ネッ 英語はABCからメンソレータムからDDT NHKにマッカーサー 古いところは全部出てるヨ

続いた数字が七つ 七つ長野の善光寺 八つ谷中(やなか)の奥寺で竹の柱にカヤの屋根 手鍋さげても わしゃいとやせぬ 信州信濃のソバよりも あたしゃあなたのそばがよい あなた百まで わしゃ九十九まで ともにシラミのたかるまで これで買手がなかったら 右に行って御徒町(おかちまち) 左に行って上野 右と左に泣き別れ さあ どうだ! ただでくれてやらあ・・・

フランス座時代の渥美清

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戦後、焼け跡でぶらついていた渥美清に声をかけたのは浅草のフランス座関係の人間だった。

「お前さん、いつまでもヨタってばかりしていたら、いずれブタ箱行きという事にもなりかねないよ。どうだい、一つ、この辺で足ィ洗って、オレの一座で幕引きをやってみる気はねえか」

こうしてフランス座での役者稼業が始まる。

 彼の一人芝居に、こんなのがあった“渥美清”堀切直人 晶文社より

 帽子をかぶり、サングラスをかけ、コーンパイプをくわえ、マッカーサーに扮して舞台に現われ、でっち上げの英語を勝手にまくしたてる。ついで、台湾総統の蒋介石に化けて、でたらめの中国語をしゃべり、時折、それにチャーシューメンといった言葉を交えた。さらに、ソ連の書記長スターリンになってロシア語らしきものを、フランスの軍人ドゴールとなってフランス語らしきものをしゃべる。そうかと思うと、突然、ターザンに変身して、アーッアッアッアッと叫び、チンパンジーのチータと化し、ウォホッウォホッと舞台を駆け回る。物真似が達者で、インチキ外国語が楽しく、次に何が出てくるのか予想できない面白さに満ちていた。

 渥美清は客を笑わせるだけでなく、客に涙を流させもした。頭に一円玉台のハゲがある、ちょっとオツムの弱い若者の役は絶品だった。「床屋のバカ倅が、おとうとの恋人に恋してしまい、なかなか告白できずにいる役をやった時などは踊子さんたちが舞台の袖に集まって、渥美やんの一挙手一投足を見つめていた。最初はお腹を抱えて笑っていた踊子たちも、芝居が佳境に入るとハンカチを握り締め、目を真っ赤に泣きはらしていた。

 そして、この頃に“男はつらいよ”のリリーを思い起こさせる過去があった。

 渥美清とM・K子との関係はフランス座時代も続いていた。M・K子は川崎セントラルからフランス座に移り、踊子として舞台に出ていた。当時フランス座の経営者となった松倉久幸は「歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた」でその頃の二人のことをこう語っている。「M・K子というその踊子は、踊りもうまくきれいな子でしたねえ。気立ても優しく、本気で渥美に惚れ込んでました。その頃の渥美はバクチ好きの大酒呑みという、芸人の典型でしたから、K子もずいぶん苦労したでしょうが、渥美のほうもこの子にはほれていたと思いますよ。キャバレーで自分のショクナイ(内職)がないときでも、K子が出番を終えるのを楽屋口でじっと待っていたりしてましたからね」。

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