8月15日の中日新聞より
1916年、四日市の北町に生まれた瀬田栄之助は旧制富中(四日市高校)から大阪外国語学校卒業後日本郵船に就職、貿易船に乗って世界中を飛び回っていた。その語学力を買われ、石原町の俘虜収容所で通訳をすることとなった。
捕虜の言葉がわかる瀬田は、自然のうちに近親感がわいてきた。「目の色と顔の色と髪の色とが少し違っているだけで同じ人間同士じゃないか?」しかし、戦況が悪化する中、施設の環境も劣悪となっていった。そこで瀬田は上官にある提案を申し出る。
8月15日の中日新聞より
1916年、四日市の北町に生まれた瀬田栄之助は旧制富中(四日市高校)から大阪外国語学校卒業後日本郵船に就職、貿易船に乗って世界中を飛び回っていた。その語学力を買われ、石原町の俘虜収容所で通訳をすることとなった。
捕虜の言葉がわかる瀬田は、自然のうちに近親感がわいてきた。「目の色と顔の色と髪の色とが少し違っているだけで同じ人間同士じゃないか?」しかし、戦況が悪化する中、施設の環境も劣悪となっていった。そこで瀬田は上官にある提案を申し出る。