イザベラバードの「日本奥地紀行」では、明治初期の地方の日本人の風俗が面白く書かれている。
栃木という大きな町に着いた。宿屋は非常に大きいものだった。すでに六十人の客が着いていたので、私は部屋を選ぶこともできず、襖(ふすま)ではなく障子で四方が囲まれている部屋で満足しなければならなかった。かび臭い蚊帳はまったく蚤の巣であった。部屋の一方は人のよく通る廊下に面し、もう一方は小さな庭に面していた。庭に向かってほかに三部屋あったが、そこに泊まっている客は、礼儀正しく酒も飲まないという種類の人たちではなかった。障子は穴だらけで、しばしば、どの穴にも人間の眼があるのを見た。絶えず眼を障子に押し付けているだけではない、召使たちも非常に騒々しく粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。宿の主人も、快活で楽しそうな顔をした男であったが、召使と同じことをした。手品師、三味線ひき、盲人の按摩、そして芸者たち、すべてが障子を押し開けた。
湯沢は特にいやな感じの町である。私は中庭で昼食をとったが、大豆から作った味のない白い豆乳(カード)に練乳を少しかけた貧弱な食事であった。何百人となく群衆が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子を持ってきて隣の屋根に登った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子供五十人ばかり下の部屋に投げ出された。
群衆はまたも激しい勢いで押し寄せてきた。駅逓係が彼らに、立ち去ってくれと頼んだが、こんなことは二度と見られないから、と彼らは言った。
外国人がほとんど訪れることのない高田(タカタ)では、町のはずれで出会うと、その男は必ず町の中に駆けもどり「外人が来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、目の見えない人までも集まってくる。宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集まってきたので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。ところが大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子供たちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。
好奇心旺盛な日本人。こんな素朴さを忘れたくないですね。