「電灯取り付けにはまだ時間がかかる」。駅もホームも、機関車の前方も暗い石油ランプで照らされていた。明治末まで石油ランプの時代は続いていた。すでに東海道線、山陽線、東北線は夜行長距離列車が運行されており、暗さは、スリ、かっぱらいの怖さも抱いていた。そろそろ乗客は列車の暗さに、耐えがたい苦痛さえ感じているはずだった。目にも鮮やかな明るい光の帯となって走る夜汽車。「客車を明るくしたいのなら、全力で電化に取り組まなければならない。それにはまだしばらく時間がかかる。電気を待つべきなのだが」しかし、島安次郎は待てなかった。
磨墨
機関車「磨墨」は闇に包まれつつある湊町構内へと入った。低い大きな瓦屋根が操車場の横に並んでいる。明治29年に大阪鉄道から買収した真新しい工場である。島が常勤しているのは機関車の保守整備を主な業務とする四日市工場であるが、ピンチ式瓦斯灯は湊町駅構内の工場で取り付けられる。
当時の湊町駅
やがて大きくブレーキシューの音を立てて列車は停車した。ホームにはわずかにランプがともされ、その暗がりへ島汽車課長は降りた。工場主任が迎えに来ていて一礼した。
暗い工場内は作業が終わっていて、照らされたカンテラの中を進むと、列車の天井を模した板の下に、西洋の燭台のようなピンチ式瓦斯灯が浮かんだ。
工場主任が台座を操作しマッチを近づけるとパッと白い炎が輝き、シェードを閉じると輝きを増してゆらめきを止めた。「うん、いいね」島汽車課長はつぶやいた。ピンチ式瓦斯灯を全車両に灯して走り去る関西鉄道の夜汽車は、一条の雷光のように村人たちを驚かせるに違いない。
明治43年の湊町駅 明治39年に国営となっているので 関西鉄道時代から見ると大きくなっているのかな?と思われます。右下Aが駅本社屋です。明治43年1月現在の「管内各停車場平面図」より(下総様よりお借りしました)