翌朝、島課長は、雷おこしを土産に買って列車に乗り込む。
機関車“磨墨(するすみ)”の振動音が気になっていたので一両目の貨物車の菰被り(こもかぶり)の荷物の上に腰を下ろした。貨物車内は彼一人しかいない。緩急車には制動要員が乗務して、停車の時はギリギリとハンドルを巻き上げる仕事につくのだが、関西鉄道では明治31年に最新の真空制動装置が装備されていて、機関士だけの集中制御が可能になった。これは関西鉄道が誇る最先端技術であり、他のどの鉄道にも導入されてなかった。
大正13年の湊町駅周辺図 中央上部が駅舎
掘割のあるのがよくわかる
「こっちや こっちや」子供の声にふとホームを見る「ほら、これが二等車、帯が青やろ」小学生が母親に言っていた「ほな、一等車は?」「次の白い箱やで。お母はん」親子連れはホームを急ぎ、後ろの車両に乗り込んだようである。島安次郎はかすかにうなずいた。一等車は白、二等車は青、三等車は赤と客車の窓の下を三色に塗り分けたのは島安次郎の考案である。当時の客車は車両間の移動が出来なかったため、乗降客が混乱しないように車両を色別にしたのだ。この等級ごとの色分けは、現代のグリーン車の名付けに受け継がれている。
※ 明治32年7月 四日市工場で製造された客車。一等車16人・三等車39人の定員となっている。勿論、真空制動機付き。客車間の移動はできない。
さて、これよりひと月ほど前のことである。関西鉄道は社告で官営東海道線に果たし状を突き付けていた。
関西鉄道 大阪名古屋間近道
〇明治33年9月1日全線時刻変更と同時に湊町名古屋間を本線とし、日々双方より5回宛の直行列車を発し、列車付き「ボーイ」及び「行商人(弁当、寿司、和洋酒類、煙草、菓子等を鬻ぐ(ひさぐ)」を乗り込ましむ。
〇当社線大坂名古屋間双方よりの賃金は、片道及び往復とも官線に比して余程低廉なり。往復は切手通用10日間にて平常三割引。
しかし、島汽車課長は、値引き競争にはあまり賛成できなかった。