父喜兵衛が、安次郎を前に座らせ「東京大学医学部へすすめ」といった。しかし、安次郎は機械工学の道へ進んだ。この変化を物語る材料は何一つ残されていない。多感な頃、人は思わぬきっかけで進路を変える。おそらく、父の意向に反したことを、故郷和歌山の空を思うたびに、かすかな痛みを感じていたのではないだろうか。
こうして島は大学院時代、現場研修のため京都へ出張を命じられたり、新橋の鉄道工場を視察したりするうち、研修先である四日市の関西鉄道でそのまま請われて就職したらしい。明治27年のことである。
さて、名古屋を出た列車は、四日市を過ぎ、伊勢平野を高速で走る。明治31年、日本の鉄道がようやく速度を上げようとし始めた時代だった。やがて官営鉄道が難所として避けた鈴鹿山脈に差し掛かかる。ここで機関車は、歩くほうが早いと思われるほどに速度が落ちる。そして、頂上の加太トンネルに入ると「空気の欠乏と通風力の不足で火室の火は赤黒くなって十分燃えないから蒸気も騰(あ)がらない。石油ランプが空気不足となって消えてしまってキャブ内が真暗となる。熱いのと息苦しいのとで生きた心地もなかったが、気力の続き限り頑張っておった」今村一郎著『機関車と共に』
暗闇の中、機関手はトンネルの壁に手を伸ばして「前へ進んでいるからもうすぐ出られる」と励ます地獄なのだった。この難所、名古屋と湊町間を、5時間を1分切って走るダイヤを作り出すためには、名古屋と亀山間で速度を上げなくてはならない。ここで島安次郎は、ピッツバーグ社製二Bテンダー機関車に改良を加え“早風”と名付けた。
『早風』