明治31年11月28日、関西鉄道名古屋・網島間の全通は、官設鉄道と名古屋・大阪間で競争をする要素となった。島安次郎が、関西鉄道から鉄道院へ入省する10年ほど前のことである。
官設鉄道名古屋・大阪間196.3キロメートル、関西鉄道名古屋・片町間172.2キロメートルで24.1キロメートル関西鉄道のほうが短かったが、運賃は同額(3等名古屋~片町・網島)の1円21銭とし、将来競争となる恐れがあるので協定を結んだ。
下総人様よりお借りしました
しかし、官設鉄道は明治32年3月の運賃改訂で同額は困難となったので、4月1日関西鉄道はこの協定を解約した。その後、33年5月31日、関西鉄道は大阪鉄道会社線を譲り受け大阪駅とも連絡し官設鉄道との競争上有利となった。そして、35年8月から名古屋大阪間において旅客・貨物運賃の競争となった。
関西鉄道の「池月1」
「池月1」
官設鉄道が往復割引運賃1等;6円86銭、2等;4円、3等;2円80銭であったが、関西鉄道では名古屋~湊町間往復1等;4円、2等;3円、3等;2円とし大差をつけた。
官設鉄道では対抗上8月6日、1等;5円、2等;3円、3等;1円50銭とし、名古屋・京都間も同額とした。
これに対し関西鉄道では8日、2等;2円50銭、3等;1円50銭とした。
関西鉄道の「望月」
「望月」
この間、関西鉄道では湊町・奈良間に臨時納涼列車を運転して運賃を半減、列車には音楽隊や特価廉売の行商人をのりこませ、奈良公園には納涼場を特設し、飲食店、ビアホール、余興場を設けて乗客を招待し、すばらしい絵入りうちわや記念品を贈るという異例のサービスをした。
そして、9月25日、競争中止の協定を結ぶに至る。