官営鉄道と関西鉄道の値引き合戦に加えて、関西鉄道では列車内に音楽隊や行商人が乗り込む事態となっていた。しかし、このような状況では双方の利益にはならないので、関西鉄道側は協定を申し入れ、明治33年9月25日、競争中止のための覚書を交わした。その内容は、名古屋・大阪間の旅客、貨物運賃を同一とし、競争区間もしくは運賃割引の競争が生ずるおそれのある区間は協定の上行うこと。物品贈与その他営業上普通でない方法(?)で乗客や貨物の勧誘を行わないことなどであった。
関西鉄道がこの協定を申し出たのは明治36年3月、大阪天王寺で開催される第5回内国勧業博覧会に、全国から集まる観覧者を競争によって不利益にしたくなかったからであった。この協定は成立して、11月1日より実施された(って、大阪博覧会《3月1日~7月31日》の終了後となっている)。
第5回内国勧業博覧会
さて、内国勧業博覧会とは、明治期に開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、第1回;東京(上野公園)<明治10年>・第2回;上野公園寛永寺本坊跡<明治14年>・第3回;上野公園<明治23年>・第4回;京都(琵琶湖北側)<明治28年>・第5回;大阪(天王寺今宮)<明治36年>で計5回を政府主導で開催された。第5回の大阪博覧会は、日本がパリ条約への加盟後で海外からの出品も可能となった。入場者数530万人と過去最大となっており、現在、会場跡地の東側5万坪の土地が天王寺公園となっている。
会場入り口
会場内の様子
あべのハルカスから望む天王寺公園、上部やや左に通天閣が見える。ここも会場だった。
但し、この協定は30日前に通告すれば解約できることとなっていた。競争は一旦おさまったが、関西鉄道側は、10月になると博覧会閉会と経済不振(日露戦争後の戦争不況の影響で第6回の東京会場は中止となる)による収入減を理由に運賃引き下げを申し込んだが、協定を破るものとして官設鉄道に拒絶された。
関西鉄道の広告
10月20日、関西鉄道は協定解除を通告し、同時に社長名をもって解約を公表、ふたたび競争することとなった。
関西鉄道の「鬼鹿毛」