戦争の終局は間近であった。『旧四日市を語る 第十集』原 孝雄さんの“四日市空襲についての備忘録 より
昭和20年6月18日午前零時45分から1時35分までの約50分間にわたったといわれる爆撃によって、四日市の街は灰燼に帰し、808名の命と共にその姿を消した。その日投下された焼夷弾は、約3万個であったという。
空襲後の中心市街地
この頃になると、第二海軍燃料廠の空襲が近いことを誰も疑わなかった。確か、6月22日9時35分頃の空襲に続く6月26日の夜の空襲によって、第二海軍燃料廠は壊滅的な被害を受けた。
この夜、私たちは、避難先の「野田」の人々も交え田圃道に出て、三滝川越しに遠く、体の芯を揺さぶるような爆弾の炸裂音と、そのたびに赤く染まる空に心を痛めながら、ただ息を殺して見守るばかりであった。空にはサーチライトが交錯していたが、その二本のサーチライトに映し出された飛行機の白い映像が、私たちの目に飛び込んできた。と同時にそれに向かっていく小さな飛行機がはっきり分かった。私たちは心から戦果を期待したが、この二機の映像はやがてサーチライトの光より消えていった。初めて見る実戦の場面であっただけに、今も強く印象に残っている。
左 鵜の森神社・右 浜田小学校(空襲後の空撮)浜田小学校の校庭の碁盤の目は畑か?
この日の空襲は、午後10時30分より翌日の午前零時20分にかけて行なわれたという。