市井からの眺め101海軍道路③
下総人さんのコメントに、海軍道路に沿ってパイプラインが引かれていたのでは?とあった。ここでベンチャーズの『パイプライン』か?などと胡麻化していたのでは 保っちゃんに叱られます。 四日市市の南部、鈴鹿川の本川と派川に挟まれた楠町本郷の楠村神社西側に、コンクリート製の建物遺跡がある。北野保著『よっかいち歴史浪漫紀行』第16話 第二海軍燃料廠取水施設より...
View Article市井からの眺め102海軍道路④
塩浜の第二海軍燃料廠と泊山は、海軍道路によってつながっていた。 昭和20年4月5日午前9時43分に空撮された第二海軍燃料廠。陸軍参謀本部陸地測量所が、何らかの目的で撮ったもの。この後、空襲で壊滅的な被害を受ける。(教育委員会所蔵) 昭和20年6月22日・26日と7月9日は、B29による空襲で、破壊された海軍燃料廠。中央やや右側に人が立っているが、建物の巨大さが分かる。...
View Article市井からの眺め103海軍道路⑤
昨日(8月6日)は休みだったので、泊山の、第二海軍燃料廠貯蔵施設跡を探索に出かけた。 日永西の中部電力変電所から西へ、南部丘陵公園東入り口方向へ入る。住宅地を走ると泊山小学校が左に見えた。小学校のちょうど北側あたりに、小山が望めたので住宅地の間を枯草を踏みしめ入っていくと、あった! まさしく 北野保さんの写真と同じだった しかし、思ったよりも大きい...
View Article市井からの眺め104海軍道路⑥
泊山から海軍道路を東へ、第二海軍燃料廠跡にぶつかり塩浜街道を南へ、楠方面へ進んだ。 農道に入ると、楠城跡の立て札が見え、その先に楠神社があった。神社の西に小さなコンクリートの建物が望める。思ったより小さい。 近くで農作業をしている方がみえた。...
View Article市井からの眺め105海軍道路⑦
燃料廠の話を聞いた方から、楠のお寺で焼夷弾が保管されていることを聞いたので訪ねた。 M69焼夷弾は、六角形の断面を持った簡素な鋼製のパイプであり、直径は約7.6センチ、全長は約51センチで、焼夷剤としてナパーム(ゲル化ガソリン)を用いられ、B29爆撃機の爆弾倉に、典型的には40発のクラスター爆弾(トータルでは1520発のM69子爆弾)として搭載された。...
View Article市井からの眺め106海軍道路⑧
戦争の終局は間近であった。『旧四日市を語る 第十集』原 孝雄さんの“四日市空襲についての備忘録 より 昭和20年6月18日午前零時45分から1時35分までの約50分間にわたったといわれる爆撃によって、四日市の街は灰燼に帰し、808名の命と共にその姿を消した。その日投下された焼夷弾は、約3万個であったという。 空襲後の中心市街地...
View Article市井からの眺め107海軍道路⑨
昭和19年12月11日午後1時22分、時の小磯首相は、今いるその場で1分間黙祷することによって、伊勢神宮に必勝の祈願をせよと、全国民に指令した。半藤一利著“B面昭和史”平凡社ライブラリより その昔、元の来寇のとき神風が吹き日本を救ったという。いままた、全国民の精神力によって神風を吹かせ、連合軍の大機動部隊を撃滅し、B29の編隊を撃墜しようというのであった。 空襲について軍部は国民を指導した。...
View Articleロジドリ(路地撮)より
中日新聞津支局の板津亮平氏が「商店街から取り残されたような、昭和のにおいがする路地を撮りたい」と訪ねて来たのは半年ほど前のことだろうか。その後、何度かみえた。当店の西側に位置する連鎖街は、ロジドリの期待に充分応える路地である。故スルメ氏が話していたのは、ここに兵舎だった建物を2棟持ってきて建てたということだったが、兵舎かどうかの確認を得ることは出来なかった。...
View Article渡満の果てに
昨日(8月12日)の中日新聞掲載のあったロジドリ裏面に“渡満の果てに 三重の満蒙開拓団”の特集があった。昭和7年以降、三重県からも3千〜4千人の家族が満州へ渡り半数以上が帰国できなかったという。弾丸列車が華々しく走る陰で、悲惨な現実があったことを忘れてはならない。...
View Article市井からの眺め108海軍道路⑩
以前“男の囲炉裏端の会”にて、北野 保氏から「四日市に原子爆弾が落とされていたかも?」というショッキングなお話を聞いた。「よっかいち歴史浪漫紀行」北野 保著 四日市商工会議所刊より 左 北野保氏(男の囲炉裏端の会にて) 『米軍資料...
View Article新 諏訪駅物語① 駅は動く!
おなじみの写真です。空襲後 急遽建てられた諏訪駅はいわゆるバラック建てでした。昭和21年頃から昭和31年9月までの10年間、諏訪駅は今の1番街の真ん中にありました。『諏訪、行こ!』。買い物に、遊びに、多くの人々がこの駅を利用しました。 明治44年の地図です。内部八王子線も湯の山線も、この頃はまだありませんでした。...
View Article緊急連絡!商店街ドミノ
只今、四日市商店連合会の事務局から連絡が入りました。 日本テレビ放送の24時間テレビで、8月23日(日)の午前1時から3時までのどこかで20年前に行われた“四日市商店街ドミノ”が再放送されるようです。 こうご期待! 申し訳ありません コピーと貼り付けでお願いします https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/e/1fef889746da597d5b4e41a2ea282a17
View Article商店街ドミノ情報②
日本テレビのTさんに お尋ねしました ご返事は 23日(日)午前1時から3時までの間のどこかで 商店街ドミノを放送予定です 放映時間ですが 生放送なので 未定である ということ 個人の顔は消すように努力しますが 不行き届きの場合は申し訳ありません ユーチューブにアップは禁止 DVDでお渡しすることもできないということでした 少しでも長い放送時間を期待して待つしかなさそうです...
View Article新 諏訪駅物語②合同駅
明治から大正にかけての 諏訪駅を中心とした路線図を描いてみました。 はじめは三重鉄道と四日市鉄道が並行して 関西鉄道の四日市驛へと延びていて 始発駅となっていました。写真は大正5年3月の合同駅の様子です。『北勢軽便王国物語』より 椙山先生が 駅の図面を描かれました。終点?始発?にターンテーブルがあって 車両はUターンしておりました。 こうして 蒸気汽車は回転してそれぞれ 湯の山へ 八王子へ...
View Article新 諏訪駅物語③戦前の諏訪駅
戦後の諏訪駅は1番街のキタオカとパチンコホームランの間にあったが、戦前は東海道沿いにあった。“旧四日市を語る”にこの記事が掲載されていたので紹介する。(手抜きにつき再掲載でございます) 新田町の南端の東海道筋に線路を挟んで昭和4年に建てられたと言われている南と北の駅があった。線路は東海道と直角に通り、両駅舎とも東海道筋の西側で人通りが多かったので如何にも遠慮して建っているように感じた。 南驛...
View Article新 諏訪駅物語④移動する諏訪駅
昭和5年の地図。諏訪驛は東海道沿いにある。 以前、諏訪驛の構内図を描いたことがあった。東海道を挟んで北驛と南驛があった。 戦前の諏訪駅の航空写真。昭和18年か19年に撮影されたと想像できるが、空襲以前にはすでに諏訪駅は北岡さん横に移動されていたようだ。諏訪公園南側には、駅のホームらしきものが出来ている。 空襲後、昭和21年か22年頃だろうか?すでに諏訪駅がある。キタオカさん南の諏訪駅は...
View Article新 諏訪駅物語⑤戦後の諏訪駅
下の三つの図は それぞれ 大正6年・昭和6年・昭和35年の諏訪駅移動図である。三重鉄道が四日市鉄道を吸収して 三重交通が引き継いでいる。そして近畿日本鉄道は、昭和31年9月の短絡化で塩浜から現在の近鉄四日市駅へ斜め直線に通るようになった。新正町の1号線高架をまたぐと「そろそろ四日市だ」という思いになる。 真ん中の図、大正6年の「すわ」は...
View Article新 諏訪駅物語⑥短絡化と広軌化
昭和31年9月、近鉄線の短絡工事が完成して、海山道駅から現在の近鉄四日市駅まで直線で結ばれた。それまでは、関西線と並行して国鉄四日市駅に一旦入り、善光寺カーブを経て諏訪駅に向かった。...
View Article新 諏訪駅物語⑦諏訪駅界隈
辻さんが撮られた諏訪駅前から東向きの写真①。昭和30年頃。右に諏訪マーケット、左にはベニヤさんの看板。その向こう側に便所があった。まっすぐ進むと左に三泗百貨店が建っていた。その後スーパーサンシとなる。学校帰りの女高生の姿、午後3時半ころか? ①...
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