昭和19年12月11日午後1時22分、時の小磯首相は、今いるその場で1分間黙祷することによって、伊勢神宮に必勝の祈願をせよと、全国民に指令した。半藤一利著“B面昭和史”平凡社ライブラリより
その昔、元の来寇のとき神風が吹き日本を救ったという。いままた、全国民の精神力によって神風を吹かせ、連合軍の大機動部隊を撃滅し、B29の編隊を撃墜しようというのであった。
空襲について軍部は国民を指導した。
「爆弾とか焼夷弾は決して全部が全部、うまく命中するものではない。弾は目的物になかなか命中するものではないのであってあって100発中1発、せいぜい50発中の1発が命中すれば上出来である。1回200機の空襲を受けて、焼夷弾400発を投下されたとしたら、直撃弾そのものでは大体100人くらいの死傷があって、まことに微々たるものであり、戦争する以上は、当然忍ぶべき犠牲である」
それゆえ問題となるべきは精神面での敗北感であると、戦争指導層は躍起になって吼えまくった。
空襲警報が発令されると街は真っ暗である。家庭防護班は防空服装に身を固めて、バケツ、火はたきなどを手にして門口に立つ。男は戦闘帽にゲートル、鉄兜を肩にかけ、女は洋服にズボンかモンペ姿で、防空頭巾をかぶり、戦場にある兵隊と同じ姿であり同じ心で、戦いの日を送り迎えるようになる。
永井荷風はひたすら憤慨している。
「夜半過ぎまた警報あり。砲声しきり也。かくの如くにして昭和19年は尽きて落莫たる新年は来たらむとするなり。我が国開闢(かいびゃく)以来かつて無きことなるべし。これ皆軍人輩のなすところその罪永く記憶せざるべからず」
開けて昭和20年6月の空襲で、四日市市街は焼け野原となる。近所の老人から公園の防空壕の話を聞いた。諏訪公園の市民壇南側にエル字型に掘られた防空壕があった。夜半、サイレンの合図とともに女子供はその中へ避難する。そこへ焼夷弾が命中する。壕は崩れ、からだ半分が土に埋まり大きなやけどを負った。私の父はおじいさんと共に店を守った。空襲の跡地では境界が分からなくなるからだった。おそらく、降りしきる火の粉の中、死に物狂いで燃え盛る我が家を叩き消していたのだろう。