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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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はりき駅のこと

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平成元年11月、岡野繁松氏を中心に“旧四日市を語る”の第1週が刊行されている。戦前、諏訪駅の次の駅が“堀木”だった。ここに斎場があった。中部中学校の校舎から煙突が望めた。

諏訪駅(戦前は旧東海道筋にあった)から西へ延びた3本の線路、参宮線?(近畿日本鉄道)は右へカーブして桑名・名古屋へ、左へカーブした三重鉄道(現・あすなろ鉄道)は、内部八王子方面へ、そして真ん中の三重鉄道(湯の山線)は、火葬場の“ほりき駅”へと伸びていた。“旧四日市を語る”にこんな記載がある。(平成18年1月の再掲載)

昭和15年

火葬場は常盤村久保田にあり、当時(昭和十年ころ)の四日市の西端にあった。周辺はほとんど田圃で、西には芝田、久保田、北には堀木の集落が田圃の向こうにひっそりと点在していてその向こうには西の山が大きく連なっていた。火葬場はその田圃の中にポッンと建っていた。すぐ南を三重鉄道の湯の山行きの電車が通り小さなホームと掘立小屋のような待合室が建っていた。

田畑の中に建つ、のどかな無人駅のような建物が想像される。きっと春の日の午後は、一面が菜の花の黄色と臭いでいっぱいだったろう。

家や寺で葬儀が済むと死者を納めた棺を霊柩車に乗せ火葬場へと向かった。この葬式の列は、殆どが西町を西へ行くか、弥生館前(柳通り)を通る道を西にとった。弥生館から西新地の狭い通りを抜けると田圃が目の前に広がり路は農道と思われる荒れた道になる。雨上がりは車の輪がくい込み、乾けば埃っぽく轍が深く残っている。この道を西へ行って、伊勢電の変電所を横に見ながら踏切を渡ると火葬場が田圃の間に見える。さらに西へ進むと、農道そのものになる。道はいっそう狭くなる。ここを三昧道とも言った。(焼き場のことを“さんまい”と言った)狭くなる手前を南へ直角にまがるとすぐ火葬場の門に突き当たる。朽ちかかった門柱と堀に囲まれた中に火葬場はあった。

現在の市立図書館が建っている場所が火葬場の跡地である。現在の図書館から北へ行くと湯の山街道との交差点がある。この交差点がやや曲がっているのは直角にまがった道を大きく改造した名残である。その当時、火葬場へ行くことを“ほおりき”へ行くといった。

昭和47年6月に図書館起工式が行われているから、この時に斎場は松本に移転されている。

図書館といえば、某市議グループさんが、移転先の候補に“じばさん”はどうかと提案されている。何よりお金がかからないのはいいが、真ん中の吹き抜けを改造しないと現状では狭すぎる。駐車場をどうするか?中心市街地の活性化につながるか?文化的建物として市民に魅力的なものになるか?現在の“じばさん”を他所へ移転させる(移転の説得)等をクリアする必要がある。


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