遠浅の海水浴場だった富田浜町は別荘地として発展してきた。上皇后美智子様(日清製粉グループ本社)正田家の別荘や名古屋の財界人が使用する別荘地にもなっていた。有料の海水浴場もあり、夏休み期間になると、富田浜駅のホームは名古屋駅や四日市駅からの海水浴客で混雑した。ウィキペディアより
昭和の初め、富田浜海水浴場が賑やかだった当時、食堂やふろや演芸場が並んでいた通り沿いに、其角句碑と小波の句碑は立っていました。
どうしてできたのか?と思える 珍妙な形の石である。
其角句碑
この句碑は元禄時代に俳人宝井其角が当時桑名領に属していた富田庄茶屋町(現在富田3丁目)を通過の際、旅籠尾張屋にて焼蛤を食し、その風味を称えて詠んだ句 蛤の焼かれて鳴くや 郭公(ほととぎす=カッコウ) 其角
を当時の主人がその筆跡を模して石に刻み自己の庭池の泉水石にしたものである。この句碑は何時しか羽津村の森玄銓(現 羽津病院)の手に移ったが、昭和5年に富田保勝会の有志が羽津病院から譲り受けてこの地に移設されたものである。 昭和63年11月3日
又、富田浜会館の敷地内に、巖谷小波の句碑がある。
涼しさや 松こしに見る 伊勢の海 小波
この句は昭和5年7月22日、明治期の児童文学界の第一人者 巖谷小波が富田の造り酒屋「酒吉」の三代目当主 伊藤吉兵衛を訪ねたおり 富田浜に遊び松こしに見える浜辺の美しさに感動して詠んだものです。それを富田の保勝会が自然石に刻んで碑としこの地に建立しました。 平成4年8月吉日
富田浜会館??って 普通の自治会会所でした。しかし、保勝会って、当時は元気があったんですねェ 中を見たいものです
海水浴シーズン中は富田浜洲組合員による簡易休憩場・食堂・土産物販売に営業も年々活発となった。地元の旅館業者や土産物業者が大正11年に富田保勝会を結成した。種々のPR活動が展開されて、富田浜人工滝の設置・賃貸ヨットの創設・賃貸ボートの創設・海水飛び込み台などが設置された。夜間は種々の娯楽施設の誘致をし、浜辺での野外映画を上映して宿泊客がそれぞれ砂浜に座り楽しんでいた。
昔は海岸通りだった
大型トラックが走る国道23号線沿いに建つ“ビーチレストラン(ビジネスホテル福寿館)”。営業されているのか?。二階は建物に風を入れるため開けてある。家の方が管理されているようだ。
名刺国道から望めるビーチレストラン福寿館は、富田浜海水浴場の名残があります。恐るおそる声をかけましたが お留守でした。
戦後になり昭和24年後は四日市コンビナートが誘致された石油化学工業の石油企業と化学企業の進出で廃油の垂れ流しによる伊勢湾後の水質汚染や伊勢湾台風の襲来や国道23号の名四国道の建設で遊泳禁止となり海が汚れて海水浴ができなくなり、昭和36年に富田浜海水浴場は閉鎖となった。ウィキペディアより