母親に連れられて午起海水浴場へ出かけた記憶がある。
暑い日の午後、幼稚園の頃だったと思う。近くの“すわとん”前から三重交通のバスに30分ほど乗り“午起”で降りた。田圃の真ん中にバス停があって、角の食堂には、かき氷やビールのメニューが並んで大勢の人で賑わっていた。正面にコンクリートの堤防が立ちはだかり、その階段を超すと景色は一変して賑やかな海水浴場が広がっていた。ヨシズ張りの海の家に入ると独特のにおいがして、大勢の人が食べたり飲んだりしながら演芸を楽しんでいる。
海水パンツを着けて砂浜に出ると、砂地は焼けるように熱く、急いで波打ち際まで走った。持参の鼻まである水中眼鏡を付けて海に浸かると、塩水の味がして自分の声だけの世界になった。海の中を眼鏡で覗いてみたいというのが夢だったが、濁った水に人の足だけが見えているだけで期待外れだった。
帰りはバス停の食堂でかき氷を食べた。いちご、メロン、レモン、せんじとあって、無色のせんじ(?)は損をするようだった。おばさんが喋りながら、かき氷の機械を勢いよく手で回し、そっと手で押さえてその上に氷を足した。暖簾の向こうには強い夏の光が、ゆっくりと西に傾き始めていて少し寂しい気持ちだった。
昭和30年頃の午起・昭和32年に埋め立て工事が始まり、砂浜も姿を消すこととなる。後方に大協石油の工場がみえる。四日市市の今昔 樹林者刊
小学校1年生の時、学校から午起へ行った。そのころには海は汚れていて、体に油を点々と付けて帰った。母親は、朕を裸にして店の売り台に立たせ、ベンジンで拭き取った。
昭和32年頃・のちに中部電力の火力発電所となるあたりの工場風景。写真の右側には平屋建ての集合住宅が立っていた(午起3丁目)。四日市市の今昔 樹林者刊