2021年6月27日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp) の続編でゴザイマス。
先日、ようやく久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)へ出かけた。
くるべ官衙遺跡
壬申の乱の足跡と、後年、その跡をたどった聖武天皇行幸路が、1枚のパネルに表してある図を撮る為だった。黒が挙兵した大海人皇子の行軍図。オレンジが足跡をたどった聖武天皇の行幸図である。
出家して吉野にこもった大海人皇子は、天智天皇の逝去を知ると挙兵。6月24日に伊勢の国へと向かいます。翌25日の夜には、豪雨の中ずぶ濡れになって三重の郡家(ぐうけ)に到着し、役所の建物の1棟を焼いて暖を取ります。翌26日の朝、朝明郡の迹太川(とおがわ)のほとりで伊勢神宮に向かって戦勝祈念、そこへ近江から来た大津皇子が合流します。
迹太川(とおがわ)古くは朝明川や十四川・米洗川(よないがわ)の説がありましたが、現在では、海蔵川や三滝川とする説が有力です。また、朝明の郡家(ぐうけ)に入る手前で、不破道の封鎖に成功した連絡を受け、ただちに高市皇子(たけちのみこ)を不破に遣わします。この不破郡関ケ原あたりと鈴鹿の関の要衝をいち早く抑えることで東国の軍を止めたのです。
資料:くるべ官衙遺跡 歴史館
遥拝の碑が建つ垂坂山。山頂からは伊勢平野が一望に見渡せ、不穏な行軍があれば即発見!
下の図は(「地図で読む日本の歴史」歴史ミステリー倶楽部 より)その後の戦の図です。素早く東に回る大海人皇子は、不破の関から幾手かに分かれ、囲い込むようにして朝廷軍(大友皇子)を慌てさせている様子がわかります。
再掲載デス
今に残る“日本書紀”は、勝ち組(天武天皇)が、書かせたもの。書記官も悪いようには作れなかったと思われます。多くの説が出される中、古代ロマンの真実は藪の中でゴザイマス。ところで“萬葉集”が面白い!くるべ官衙遺跡、是非、訪れてみてください。