九十郎はその後、美濃高須へ帰ることもなく、稲葉家で仕事を手伝うようになった。数年の歳月が立ち、安政元年、九十郎は15才、おたかは8才を迎えていた。養母のおたいが亡くなったこの年から3年は、九十郎にとって終生忘れ得ぬ苦難の連続となる。
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ニュースという物語 江戸大地震の図より
6月15日丑の上刻(午前1時)、四日市に大地を揺るがす大地震が襲った。それは、半時(1時間)ほど続いて、明け方にはあちこちから火の手があがり、その日の夜まで燃え続けた。焼失家屋62戸、倒壊371戸、半壊347戸、半壊大破(?)780戸、小破364戸、焼死68人、怪我で死んだ人87人、怪我人無数。他に陣屋は総潰れとなり10の寺院が焼けたり潰れたりした。稲葉家の被害は無く避難だけで済んだが、浜辺一帯の地盤が約2尺(60センチ)も沈下したので、内海護岸のかさ上げを急いだ。一旦治まったかに思えた11月4日再び地震に襲われ、この時は野寿田新田(昌栄新田)の堤防が大破した。
錦絵に見る安政大地震 消防防災博物館
翌 安政2年4月20日夜8時頃、今度は高潮が襲来して工事中の堤防を寸断、田畑一面に海水が流れ込んだ。この影響で8月15日、復興に心血を注いでいた養父三右衛門は、疲労困憊し帰らぬ人となった。九十郎19歳の時であった。続いて翌3年、美濃高須の実父 吉田詠甫も永眠する。九十郎は、店を切り回しながら堤防の修理に駆け回った。この時の体験が、後の築港工事に大きな示唆を与えたのは言うまでもない。九十郎は、同じ回船問屋仲間の田中武右衛門と共に浚渫工事を続けた。しかし、野寿田新田から次々と流れ出る土砂は水路を塞ぎ、四日市湊は、小回船すら航行し得ない状況だった。
悪いことばかりではなかった。元治元年、三右衛門(九十郎)は28才、おたかは20才の春を迎え、この年の暮れには長男 甲太郎が生まれた。
慶応2年4月8日の深夜、三右衛門の表戸をトントンと叩くものがあった。
2021年8月30日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
へ続く・・・。