稲葉翁は、明治3年10月20日、廻潤丸の客となって、横浜見物の途につきました。船中では嘉納船長に、長谷川庄兵衛と共に描いた港の図面を見てもらっています。
「素人の測量ですし製図も不出来で、お恥ずかしい次第です。」三右衛門は謙遜して答える。秋晴れの小春日和、航海は一路平安無事に横浜港へ入った。横浜に本格的な築港工事が始まったのは、慶応3年の春からで、三右衛門が訪れた明治3年には第1期工事が完成する頃であった。翌日は船長の案内で港内をくまなく見物して回った。外国人はみんな意気揚々と自由に馬車を乗り入れていて、中国人は、中華街で大きな店を並べていた。ところが肝心の日本人は港から遠く離れた周辺に、小さな家を建て並べて、飲食店や土産物屋など、ささやかな店で細々と暮らしていた。
「どうです、稲葉さん横浜は。」
「いやぁ かんしんしました。だが船長さん、私が驚いたのは街の賑わいではありません。」
私が一番驚いたことは、横浜が全く外国人のものになっていて、日本人が隅の方に小さくなっていることです。私は決心がつきました。大神宮様のお膝元にある四日市港を外国人に渡してはなりません。
三右衛門は翌日から、和蘭技師のビールスの処に日参している。測量の方法、浚渫のやり方、防波堤の積み上げ方など、築港に必要な一切を教えてもらった。一番苦心したのは、石垣を固めるためのセメントが、当時はまだ輸入できなかったので、代用品をどうして作るかであった。
帰郷した三右衛門は、四日市の湊を眺めて長大息したが「私は横浜へ行って良かった。今に見ろ、このみすぼらしい港を、黒船が出入りできる立派なものに仕上げてやるぞ。」と独語した。 つづく