明治3年12月31日の暮れ六つ(日没の18時頃)、稲葉家では親族眷属が集まり祝いの膳につくのが恒例の行事だった。塩鰤(ぶり)のついた年越し料理に年越しそばが添えられていた。桑名では塩鮭、伊賀では飛魚、信州では塩鯖、京阪では棒鱈と地方により年越し肴は異なっていた。その席で、いよいよ取り掛かろうとしている築港工事の話がされている。寅高新田の埋め立てには百姓衆から苦情が出ないか、昌栄新田の水路はどうか、浜地で地引網をしている漁夫たちへの説得と心配事は尽きなかった。夜も更け不動寺か得願寺あたりで除夜の鐘が鳴った。
「あけまして、おめでとうございます」
「いや、おめでとう」
明けて明治4年1月元旦。冬晴れの良い日和であった。店の四方を拝した三右衛門は神仏にお灯明を入れ、家族揃ってお屠蘇にお雑煮の膳を囲んだ。元旦は菩提寺に参拝するのが常で、妻おたかと長男 甲太郎を伴って、中納屋の自宅を出、丸池筋から新丁を横切り下新町の曲がり角にあった得願寺の門をくぐった。現在の得願寺は、戦災で一切が灰燼と帰したため戦後復興都市計画事業の区画整理で墓地を泊山霊園に移しているが、当時は、本堂南側に約300坪の霊園があった。墓前に額ずき三右衛門は、嘉永4年11月に没した先代にむかって、事業が滞りなく進むようお願いをした。「私は、命を投げ出してでもこの四日市の湊をようしたいと決心をしました。お父さんも草葉の陰からお守りください。」
四日市の100年より
この後、諏訪神社へ向かいここでも決心の程を祈念している。当時の諏訪神社は、巨木が生い繁り社殿も立派で荘厳を極めていた。此処で妻子を家へ帰し、その足で南町の伝馬町に黒川彦右衛門を訪ね、北町の福生裕作方から、陣屋跡の渡会県庁四日市支庁、竪町、中町、蔵町の関係筋を回り、蔵町の船会所で新年の挨拶をして戻ったのは昼過ぎであった。
明治44年マップ
昼食を済ませた三右衛門は、川原町の実兄の処へ挨拶をかねて相談に出かけている。蔵町筋を上って、今の中部電力営業所の東にあった魚の棚を折れ、一面が田圃であった一本道を斜めに、八幡町の裏を通って、慈善橋の南へ出た。当時北条や八幡町を繋ぐ三滝川には一枚の板を並べた借り橋が架かっていただけで、東海道筋の三滝橋以外には橋はなかった。大雨で板が流されると。浜一色の嘉兵衛老人が、落橋毎に田船を運んで来ては、無料渡船を行っていたのを、浜一色 天聖院の住職 林 道永らが浄財を募って明治24年架橋して慈善橋と命名した。現在の慈善橋は少し東にずれている。八幡町から三滝橋を越えた北岸、今の新浜町から浜一色一帯は悉く泥田で北岸堤防の松原は、嘗て刑場に使用されたこともあり、駅馬の繋留場となっていた。そこから東海道沿いに出たところに実兄の山中伝四郎宅があった。