「ねえ、徳田屋さん、あんたとは文久3年以来の長いお付き合いですが、三右衛門一世一代のお願いを聞いて下さらんか・・・」
此処は浜町、徳田屋こと田中武右衛門の奥座敷。時は明治4年正月、まだ松の内の七日。次第に更け行く夜の寒さに、主客二人が火鉢を囲んでの対談。三右衛門の言葉は次第に熱を帯びて真剣そのものだった。
Web日本財団図書館資料より 咸臨丸模型
荒神山に乱闘のあった慶応2年は時代が大きく変わる過渡期で、世の中は騒然としていた。11月14日に、幕府勘定所の御用船 咸臨丸が四日市に入港、鳥羽伏見で敗れた残兵を収容して翌3年正月7日江戸に引き上げている。慶応3年は明治と改元され、新政府の下で制度の改革が行われた。三右衛門は、稲葉姓を名乗ることを許され、太政官会計御用係や度会県から戸長を命ぜられるなど多忙な日々が続いた。
そうした中、3年10月 廻潤丸の廻航を見るに及んで、港湾修築の悲願を遂げるため田中武右衛門宅を訪れたのだった。田中武右衛門(ぶえもん)は神戸新町の生まれで養子として入り、浜町に廻船問屋 徳田屋を営んでいた。歳は50で三右衛門より15歳年上の分別盛りである。
「昨年、私は廻潤丸のお世話になり横浜を視察して、四日市湊を良くしたい願いに駆られました。しかし、なんせ大きな工事、一人の力ではどうにもなりません。そこで徳田屋さんのお力をお借りしたいと、こうしてお願いに参りましたんや。」
「あんたの気持ちはよう分かる。このままでは湊も破滅や。けど、この大仕事は天朝様のお力でするのが本筋やないか?」
「あんたのご意見はごもっともです。けど本庁は“忙しい”の一点張りです。」
「いったい改築工事には、どのくらいを見込んでますのや?」
「築堤と浚渫におおよそ7万両から8万両はかかると思うてます。」
「その費用を生み出す工夫は?」
「払下げを受けた官有地を埋め立てた土地の売却費と船からの運上費で賄いたいと・・・。」
「分かりました。私のようなものでもお力になれるなら。」との快諾を得ることが出来た。その後、二人連れで出歩く姿が見受けられるようになった。