安政3年(1856)、黒駒勝蔵は、甲州は竹井村の中村家(兄 甚兵衛・弟 安五郎)の子分となっている。この時すでに、安五郎は島抜けしていた。島抜けは捕えられ獄門である、幕府は絶対に見逃すわけにはいかなかった。
文久元年(1861)、関東取締出役 道案内 国分三蔵は勝蔵の子分を捕え、これ見よがしに殺害した。今度は勝蔵が殺した三蔵の子分を惨殺させて復讐する。再度三蔵が勝蔵の子分を殺害させるという血なまぐさい殺し合いが繰り返された。見かねた博徒 信州岡田村 滝蔵は、中泉代官に訴え出た。中泉は十手を預かる大和田友蔵に捕獲を命じる。友蔵は次郎長の朋友である。これで、次郎長は勝蔵を倒す“大義名分”を手に入れることが出来た。
清水次郎長
次郎長と勝蔵の闘いは各地の博徒を巻き込んで、遠州(天龍川)、三州(三河)、勢州(伊勢=荒神山)で盛大に行われた。
広重 東海道五十三次 藤枝宿より
文久3年(1863)4月、黒駒勝蔵は、藤枝宿で大和田友蔵の子分を拉致して友蔵に宣戦布告をした。5月10日、続いて子分7人と共に友蔵宅に夜襲をかけ、天龍川西岸の子安の森に黒駒党80人で陣を敷いた。対する友蔵は東岸に100人の陣を敷く。お互いが鉄砲を放ってけん制し、時の声をあるだけの膠着状態が続いた。友蔵から助けの書状を受け取った清水の次郎長は、その日の内に大政小政ら主力の24人を率いて、駆け付けた兄弟分 伊豆天城下 狩野の石屋重蔵の一団と共に翌午前1時頃に友蔵の陣に着いた。
掛川宿 遠州凧
対岸の布陣を見た勝蔵は、勝ち目はないといったん退く。東へ移動する勝蔵を追って次郎長の一団170人は、掛川まで来たところで掛川の警吏役人に出くわす。この時、次郎長は役人に向かい豪語した。『幕府の末世にあたり、賊を拿(だ)し盗を捕る。却って(かえって)その力を借りる』毒を以て毒を制すという事だろうか?次郎長・友蔵軍と勝蔵軍を合わせれば4,500名にもなろうかという博徒の数は、もはや幕府や藩の力では鎮圧できる域を超えており、危険水域に達したことを示していた。
兵藤恵昭氏は、ブログで勝蔵についてこう書いている。
黒駒勝蔵は、講談や芝居で、次郎長の悪者敵役のイメージが強く、勤皇博徒の名は知られていない。しかし、勝蔵は根からの勤皇主義者でもなく、反幕府思想の持ち主でもない。権力に対しての反逆に共鳴する侠客ではなかったか?