天龍川から西へ、数百名の博徒が東海道を走った。その翌年の元治元年、黒駒勝蔵は、次郎長が待ち構えていそうな駿河、遠江は避けて、金城湯池三河に一時の隠家を求めた。三河は、寺津の間之介、吉良の仁吉、形原の斧八の次郎長勢で固められていたが、平井の雲風亀吉(元力士)が勝蔵の兄弟分だったので、ここを拠り所としたのだった。
前芝の燈明台(復元)
その年の6月5日 早朝、勝蔵が亀吉の処に逗留している情報を得た次郎長は、形原の斧八の処へ集合、総勢34人で、戦闘用の二丈(6メートル)の竹を二十余本用意して乗り込む。夜が白々と明ける頃、寝床で朝飯を搔っ込んだ一団は、舟で前芝海岸を目指す。巳の刻(午前11時)着岸、亀吉の屋敷を取り囲んだ。亀吉と勝蔵は二階の障子を明け放し、御油の遊女屋で引き取った若い妾の酌で10人ほどの小宴の途中で、油断があった。
御油の宿(広重 東海道五十三次)
御油 旅人留女|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画 (adachi-hanga.com)
今に残る御油宿の風情
修羅場となったその場は子分の大岩に任せ、屋外に逃げた二人は農作業の農民の中に紛れ込んだ。闘った大岩らは膾(なます)状態に切り刻まれ、次郎長の手で晒首(さらしくび)にされた。この光景を遠目で見ていた亀吉と勝蔵は、復讐に向かって怨念を燃えたぎらせていく。
大岩らの墓が 形原共同墓地に残る。晒首の数と合う
無縁法界の墓・豊川市-東三河を歩こう (net-plaza.org)
<後日譚> 大正2年、亀吉の弟である常吉が新聞記者に語った資料がある。それによると、6月6日、次郎長は形原に止まり、大政が陣頭指揮にあたっていたという。総勢43人、晒首にされたのは5人という事だった。
年末になって、復讐の期を窺がう平井亀吉の処に情報が入る。師走を迎え形原に戻った斧八は、防備が手薄という。
12月27日、世間体を気にして亀吉を残した末弟の善六は、総勢二十余名で前芝から舟に乗り、昼頃 形原の磯に着く。
現在の形原漁港
敢えて船の纜(ともづな)を切って船を流し、まさに背水の陣で臨んだ。その日は雪で一面真っ白。雪を蹴立てて斧八宅に突進する。突然 仕込まれていた張筒(仕掛け花火のようなものか?)が轟音とともに爆発、斧八は、善六一味がひるんだ隙に寺津の間之助宅を目指して逃げ出した。結末は、斧八の子分7,8名が惨殺されて終わったとある。
『東海道遊侠伝』によると、慶応2年12月5日、討ち入ったのは「黒駒の徒十余人」で、次郎長の子分 豚松と鳥羽熊が防戦したとあった。豚松の奮戦はすさまじく、斬られた断腎(腸?)を拾って自分で修復するやら眼球は飛び出すやら、あまりの形相に治療した医者を驚かせたという。
次郎長、勝蔵の決戦は荒神山へと続く。