格式のある本陣は、一般の人を泊めることが出来ず“客引き”も禁止されていることは前回述べました。“本陣”はその名の通り戦陣の本営を意味していて、民家でありながら表門や書院造の上段の間など武家建築が許されていました。
豊橋 二川本陣
しかし、経営は苦しく、大名たちを宴席や料理でもてなしても財政難の大名の中には、宿泊代を値切ったり、踏み倒す者もいました。公家に至っては、宿代として和歌などをしたためた短冊を置いていくだけの者もいました。清水本陣は続けられましたが、別の本陣の代替わりしている事情が分かります。
二川本陣内 上段の間
諸大名の財政難がさらに深刻になった享保年間(1716〜1738)頃になると、幕府は本陣の財政難の事情を知ってか庶民の宿泊を許しています。「今日の宿は、ひとつ豪勢に本陣とするか」なんて・・・。
二川本陣内部
一方、参勤交代は、江戸に妻子を置き、隔年で国許(くにもと)との間を行き来した制度です。大名行列も江戸藩邸の維持費にも莫大な経費がかかりました。御三家である紀州徳川家の場合、天保2年(1831)の参勤交代経費に1万2930両。江戸藩邸の経費に2万1250両で計3万4180両(約34億円)かかっています。国許では年間1万1080両ほどの経費ですので、参勤交代の制度は、約3倍の費用を要していることになります。各宿場や江戸では潤いましたが、大きな負担でした。藩の財政難を鑑み、幕末になると江戸幕府は参勤交代の制度を緩めています。薩摩藩や長州、土佐藩など江戸から遠い外様大名ほど、経費と日数が負担となっていたましたから、倒幕への資金を蓄えることが出来たのでしょう。
豊橋 二川本陣 広重画(かしい餅)の看板がみえます
※二川本陣様 Webサイトより画像を盗ませていただきました 陳謝申し上げます