“東海道五十三次 関 本陣早立”歌川広重画より
亀山市関町の早朝の様子です、出立前の緊張した雰囲気が漂っています。右手前に立てられているのは“関札”で、前もって到着する“宿割役人”は、藩の家紋を染め抜いた幔幕と提灯を持参しているのでしょうか?この幕は、丸に“田”と“中”を組み合わせた紋になっていますが、実は、広重の実家の紋で、緊張感の中に遊び心を取り入れています。
駕籠の前に立って指図するのは、本陣の主人とみられ、提灯を持って立つ男の硬い表情で何やら指図をしています。手前の3人の奴(やっこ)は、キセルを吹かしたりして出発前の憩いを楽しんでいるようです。やがて準備を整えた一同が陣屋の中からお出ましになるのでしょう。陣屋の主が立つ頭の上に“仙女香”と“美玄香”の白粉と白髪染めの札が下がっています。これは“講中札”にみせかけたコマーシャルです。
中仙道と北國街道の分岐点にあった“追分宿”の脇本陣“油屋”。武家が宿へ入るところです。
吉村 昭氏が“生麦事件”の史実調査の折“大名行列”について書いています。“史実を歩く”吉村昭著 文春新書より
『驚いたのは大名行列の規模が予想以上に大きいものであることだった。加賀百万石と云われた加賀藩の行列は7000名、薩摩藩は3000名だった。
藩の者以外に多くの人足が随行したが、何の為に必要としたのか。大名は、宿場に着くと本陣に泊まるが、そこで出される食事はとらない仕来りがある。その為調理人たちが行列に随行していて、本陣で大名に提供する料理を調理する。彼らが使う鍋、釜、まな板、七輪などの調理用具一式が人足によって運ばれる。漬物桶も重石と共に長持に入れられて運ばれ、道中で入手した瓜、茄子など糠味噌に漬け、新鮮な漬物を供するのである。また、本陣の寝具類も使うことをしないので、布団、枕、蚊帳を運び、浴室に入ることをしないので風呂桶を人足に担がせてゆく。むろん、医師はもとより、馬も連れてゆくので馬医者も随行し、髪結い職人も付き従う。』これではお殿様も、旅を楽しむことは出来なかったようです。
事件現場の生麦村
“生麦事件”とは、文久2年(1868)8月21日、薩摩藩主 島津久光の一行が、江戸を立って生麦村に差し掛かった折り、行列を横切った英国商人を切り殺した事件です。