平成10年2月発行の“旧四日市を語る”第9集より
金津さんは、昭和9年8月10日、小学校二年生の夏休みの時、第二潜水戦隊『由良』見学の為、稲葉町の高森家を訪れていて、掖済会近くの石灰工場の様子が詳しく書かれていた。。
大正13年
昼食は高森家でいただいた。刺身等新鮮な魚がたっぷりと中々の御馳走であった。食後、直ちに河口へ下りてみた。丁度干潮時だという事で、砂州が出来て幾条かの澪が流れていた。海苔みたいな海藻が所々落ちていて、石に牡蠣、巻貝、法螺貝の仔みたいなものが至る所に居た。
黒い御影石が散らばっていて(愛知県の幡豆郡から持ち込まれた港の捨石)、それにも牡蠣や法螺貝が付着していた。対岸には午起が見えたが、そこまでは よう 行かなかった。河口の堤防道路を南へ曲がって行くと (掖済会前の)海岸に丸いコンクリート台があり旗が掲げられていた。天気予報の旗かと思った。高森家の東には土提へ上る道を隔てて石灰工場があった。この小道は途中で東へ曲がっており、角に一坪足らずの店があって、子供向けのキャラメル等を売っていた。堤防道から川底までは急な石積みだった。石灰焼き場北の河口へは昇降できるよう足場がつくってあって、満ち潮時には船から荷物が上げられるようにしてあり、あたりには石灰石が散らばっていた。
石灰工場は、東西約15メートル、南北10メートル程あって、東側に石灰焼き場(西に精製工場)があった。北側が入り口で、堤防道路と同じ高さで奥へは高くなる盛り上げ土になっていて、そこに1メートルほどの穴があり、石灰石が真っ赤に焼けていた。三人の男の人が石灰石を割ったり、粉炭を投げ込んだり、鉄棒でつついたりしていた。
西の精製工場は、東西20メートル、南北10メートルの木造平屋建てであった。北側に道路の端から少し離れて30センチほどの敷居がありそこに乗って覗いた。屋内は白いタイル張りの1.5メートル×5メートル位の風呂のような櫓が六個並んでいて、石灰で白坊主のような男の人が、口をゆがめながら石灰泥を容器に移していた。中央にはポンプが二基あり、天井のプーリー(滑車)とベルトで繋がっていて、ピストンと連動していてガッチャンガッチャンとリズムよく動いていた。そのポンプにすぐ東には、塩酸一ビンと欠けた茶碗が置いてあった。一面真っ白な床の上で、この部分だけは石灰が解けて煉瓦の床が見えていた。
建屋の外の南側に、乾燥棟が数棟あった。屋根だけの建物には、棚がつくってあり、石灰を並べて乾燥させていた。(万古焼の型を製造していたのだろうか?)