浜田城址 其の五 掃部殿塚
平成29年1月15日の鵜の森神社 雪景色
前年(平成28年)10月 綱の会さんが 鳥居左側の神社と公園の境に“冠木門”を建てました
“掃部堂之秋景(かもんどうのしゅうけい)”知られざる四日市の面影より 水谷百碩画 四日市市立博物館刊
天正3(1575)年の浜田落城の時、浜田家の家臣中川掃部助が戦死した場所を、地元ではかもんど(掃部殿)塚と呼び、祠ももうけられていました。百碩は、掃部堂(かもんどう)という字をあてたようです。たわわに実る稲穂と鬱蒼とした森と対照的に描かれています。現在も、天理教四日市分教会の中に残されています。
史蹟 掃部殿塚
四日市草創の領主 名族 田原氏も 末路に近づいた天正3年(1575)の夏 浜田城の前衛として三滝川に織田信長の武将 瀧川一益の勢を堀木信濃守 中川掃部助等は衆寡敵せず此処彼処で討たれ 城主 遠江守 元綱は割腹して果て 浜田城(鵜の森)の落ちると共に皆散り散りになった。
掃部助も終に恨みを呑んで此処に討ち死にした 埋められた屍の上に建てられた石龕(せっかん)は、おそらくは後年 鵜の森神社創立前後のものであろう 古戦場の常として陰々たる燐火の雨 夜毎に燃えて 浜田の子女を恐れしめた 地方民は尊崇して掃部殿の森と称し その後約350年間付近の木を切ったり祈るなどすれば たちまち病魔に犯されると語り伝えられ 樹木の生い茂るにまかせ 鬱蒼たる森のまま残されていた
元地主 井島氏は 田原家の重臣で中川氏とも縁故であったから 毎年6月6日浜田城没落の日に その霊祭を欠かさず営んでいられた
大正5年(1916)天理教教会内地となるに当たり 形見に残された数本の亭々たる老杉も朽ち失せ 境内に威容を留めていた大樹の松は 昭和34年9月26日(1959)伊勢湾台風で倒れて 今は石龕(せっかん)と僅かの雑木に遥か昔を偲ぶのみである