出久根達郎氏のエッセイには楽しませていただいている。“つげ義春コレクション”ちくま文庫の解説にも投稿してみえた。
昭和34年の3月に茨木県から集団就職で東京に出た出久根氏は、15歳で中央区月島の古書店に就職した。
当時のほとんどの古本屋は貸本屋を兼業していた。当時は貸本屋の全盛時代。都内には400軒ほどの古本屋があったが、貸本屋はその4倍の数だった。「ネオ方式」という新しい商法が発明されて、客の支持を得たのである(本が高価だった江戸時代から、貸し本業は盛んだった)。
それまでの本屋は、貸し出すとき本の代金分を預かり、戻された時にそこから読み賃を引いて返していた。裕福な者でなければ利用出来なかった。ところが神戸の花森松三郎氏は、保証金システムをやめ、身分証明書や米穀通帳の提示で信用貸しする方法を考案した。この「ネオ方式」は、たちまち全国に広がった。新刊が10円、15円で読めたのである。月刊誌であれば10日間ほどが勝負で、そのあとは古書として店頭で売った。この売り分がもうけである。
当時劇画と呼ばれていた「街」「影」「Ⅹ」「鍵」などといった漫画が流行して、大抵がソフトカバーの糊付け製本だったから、短期間でバラバラになった。新刊が入荷するとドリルで穴をあけタコ糸で綴り直し、ビニールをかける。今でも図書館の本はビニールがかかっている。
辰巳ヨシヒロは怪奇漫画の様相でした
貸本屋は四日市にもあって、場所は小学校の近くだった。中部西は、学校の東南の路地。浜田小学校では、北東の角にあった。裏表紙に小さい袋があってカードが入っている。おばさんがカードに貸し出しのメモをしていた。
学校から帰ると、座敷でゴロゴロしながら漫画を見る。末っ子だったから、姉や兄に云いつけられ、読み終わった本の交換にやらされた。
「隣室の男」復刻版で持っています こどものころ見たので懐かしいデス
白土三平の「忍者武芸帖」は引っ張り凧だった。東京の月島は若い工員が多く、まず彼らが熱狂した。学生は最初、内容が残酷すぎると鼻であしらっていた感があった。自分も初めて見た時、斬られた手が飛んだりした残酷なシーンがあって、大人の漫画だなぁと感じた。そして白土三平は、昭和40年代になると、大作「カムイ伝」を発表する。
貸本屋もやがて廃っていく運命にあった。昭和30年代の中ごろまでだったのでございましょうか。