昭和38年2月、名四国道が開通しています。長島に料金所がありましたね。小学生の頃、午起海岸へ自転車で行きました。その当時、名四国道は工事中で、午起海水浴場はすでになく新しい道ができつつありました。8月、近鉄駅前に噴水塔が完成しています。9月、最高裁が松川事件の被告17名に無罪を言い渡し、松川事件に終止符を打っています。戦後がまた一つ終わりました。10月、それまで70メートル道路と50メートル道路だった呼び名が、中央通りと三滝通りとなりました。
昭和40年7月15日辻さん撮影
伊吹慎吾という定時制高校に通う勤労青年の青春を描いた横山まさみちの『あぁ青春』は、集団就職という時代背景に大ヒットとなりました。当時は舟木一夫の「高校三年生」が発売、青年の青春が注目されるようになりました。
巴里夫は若木書房から『白ゆりの旅』を発表、「泣かせ」の母物を多く描いています。両親を亡くし祖母と暮らす姉妹に養子の話が出て騒動となる様子が、明るい調子で描かれています。40年から「リボン」で学園ものを発表、活躍しています。
白ゆりの旅
赤塚不二夫は、貸本マンガでデビュー、少年ギャグマンガでヒットするまでは、主として少女マンガを発表していました。「魔女少女モノ」の元祖といわれる『ひみつのアッ子ちゃん』は「りぼん」で連載が始まっています。
当時、少女マンガで活躍していた漫画家に、横山光輝「おてんば天使」、ちばてつや「123と45ロク」、永島慎二「裏町のおてんば娘」、石森章太郎「水色のリボン」があり、元気なおてんば娘たちをみずみずしく描き出していました。
日本共産党に入党した まつやまふみお は、時局的風刺画『鳥獣戯画』を「赤旗」に連載しています。
昭和20年代の鉄道輸送法改正に伴い、雑誌の付録に規制がかかりました。そのため、別冊付録が付くことになり、本誌1冊に別冊付録10冊が付くこともありました。「りぼん」には“ひみつのアッ子ちゃん”、「少年」には“鉄人28号”が付き、本誌の続きがふろくの別冊になったりしていました。(そんな記憶がありますが、どうゆう意味があったのでしょう?)
しかし、「少女」「少女クラブ」「りぼん」「マーガレット」と、この頃は少女マンガに元気がありました。手堅くファンがあったのでしょうか。