岡野繁松先生を中心としたグループで出版された“旧四日市を語る会”。その第1集に岡野先生が“四日市祭り”と題して投稿してみえました。
2学期になると、諏訪さんの祭りのことで頭がいっぱいであった。親類の者に会えること、小遣いがもらえること、学校が休みになること、寿司などのごちそうが食べられること、良い着物が着られることなどである。しかし、それ迄には家の掃除や片付けの手伝いがあった。
大正7年の三滝川 四日市の100年 中西秀男氏所蔵
家の障子やレンジを三滝川へ運ぶ、川に漬けてふやけるのを待って洗い出す。亀の子たわしに磨き砂でごしごし洗う。力を入れすぎると桟が折れるので、やかましく注意された。子供はざっとした洗い方なので大人が洗い直していた。河原で乾かす。この時になると子供たちは俄然元気になった。洗っているときに濡れた服で川へ入っても注意されなかった。乾くまでのひと時、川原に腰を下ろしての一家団欒の光景があちらこちらにみられた。
・揚げ寿司、巻き寿司、押し寿司(箱寿司)、握り寿司等をつくった。
・町内では、早くからお囃子の稽古が始まっていた。
・祭りが近づくと、練り蔵の戸が開かれて屋台が出され、飾りつけとともに当日を待つ。
<気になる記載>
気になる記載が第5集にあった。◆うどんや嶋口屋付近 昭和10年12月2日 新田町豆腐屋、仏壇商、毛糸屋など焼ける。午後6時から7時半ころまで大騒ぎであった。
豆腐屋がどこか分からないが、どうやら当店が火災にあったようでした。