江戸時代の四日市祭り 伊勢新聞 昭和31年9月26日夕刊より
大入道をはじめ、27にもぼる山車や釣り物を繰りだした四日市祭りは、万金を投じたもので天下の珍貴を集め、まつり囃子(ばやし)は、まばゆいばかりの大絵巻であった。これはお祭りに関する座談会、“四日市祭り今昔話”の記録である。
語りは、O氏とありますが、岡島清一氏とおもわれます。
「明治維新まで“試楽”といって9月26日には主として御陣屋前で行われ、各町の練り物は四ッ辻方面に集合して西町組(久六町、比丘尼町)、北町組(川原町)、南町組(上新町)、竪町(立町)(魚町 後の竪町横丁)、中町組(東中町・中新町・四谷新町)、浜町組(下新町・北条町)、納屋町組(蔵町・北納屋町・桶之町・袋町・南納屋町)という順序で、西町から御陣屋前に進み、ここで実技をしました。
明治44年 町名を参考にしてください
27日の祭典は、新田町の大山車を、江田町の石橋まで引き出し、浜田町の大山を迎えてともに諏訪神社鳥居前にひきつけ、右に新田、左に浜田という位置で“花納式”を行いました。(年交代で、西町と江田の大山が繰り出されたようです。4台揃ったこともあったか?)その後、獅子舞の式があり(大山の上で舞ったか?)、新田・江田・浜田等の練り物が神前に練り込みます。次いで、練り物は、浜田と新田の大山車を先頭として南町、上新町、竪町の順で次々と神前に練り込むことになります。」(新田の大山が、浜田の大山を迎えに行き、共に神社に練り込んだようです(水谷氏談))二つの大山が巨大ロボットのようで、壮観だったと想像できます。
次に各練り物の説明になります。H氏、堀木忠良氏と思われます。
西町の“楽大山車”大きい!。現存されてないのが惜しい限りです。
「親町にあたる西町は、楽大山車と呼ばれた大山でした。次に神輿の行列、道楽、舞楽の人形、四神の鉾の順序で、人夫の百人余に白丁<下級武士が着用した白の布子張の狩衣(かりぎぬ)の一種>を着せて、金が掛かって困りました。」時代が経つにつれて、電線などで大山渡御が不可能になり、神社前で組み立てるようになったと聞いています。
白丁(Webより)
第二小学校(現 浜田小学校の位置で 下総人さんからコメントをいただきましたので、拡大図(拡小???)の掲載いたします。