前回掲載した、西町から出る“楽大山車”の続きです。樹林者刊“四日市の今昔”に“四神の鉾と武人人形”として写真が掲載されていましたので紹介します。
四神の鉾を先頭に“蘭陵王(らんりょうおう)”“陪臚(ばいろ)”“太平楽(たいへいらく)”“胡蝶”“貴徳”の武人人形が続き 伶人が雅楽を奏して練り歩きます。これは“釣り物”と呼ばれ、人夫が担いで練り歩くものです。
水谷宜夫氏所蔵
さて、新田町・江田町・北浜田と続きます。
司会「新田町の小山(屋根付きの台の上で人形が演技をするものを小山といいました)は天岩戸神楽でしたね。」
I氏「太古、天鈿女命(アマノウズメノミコト)が舞い降り、天手力男神(タジカラオノカミ)が、天岩戸にお隠れになった天照大神(日の神)を引き出すという神話から取り入れたからくりです。露払いは猿田彦でした。」諏訪神社入り口に位置する町という位置づけで“大山車(屋根がなく、舞台になっていた)”を持ち、練り込みは初めに、神社から出るときは最後でした。
水谷宜夫氏所蔵
司会「江田は?」
R氏「大黒天の寶袋破りです。大黒天が釣りをしていて、“寶袋”を破ると、中から子供の人形が現われて舞います。大変面白いからくり人形で“江田(えんだ)のくろぶつさん”の愛称で呼ばれていました。」
水谷宜夫氏所蔵
司会「北浜田は?」
A氏「これも人夫が担いで練る“釣り物”です。和歌の三神(柿本人麻呂・山部赤人・衣襲姫)と称された三人の歌聖を人形にしたもの。行列の前部には大榊と四神剣がつき、威厳のある行列だった(前田憲司氏談)。
前田憲司氏所蔵
※ 昨日の記載で、下総人様からコメントをいただき、第二小学校(現 浜田小学校)の位置が、旧東海道沿いにあって、間違いではないか?と思っておりましたが、明治四〇年発行の“四日市案内”の地図から、間違いではなく大正期あたりで移動されたものと判明いたしました。
こんなところに学校があったんですねェ。