続いて、南浜田は?
山路良次氏談「大山は、浜田・西町・北町・新田町にあった。浜田の大山は、北浜田でと南浜田(南浜田・橋南・中組・十七軒町)で持っていて、北と南が交代で大山の当番に当たった。
浜田の大山が、旧道を曳航する貴重な写真。その昔、浜田の大山の先端が、塩浜の海岸から見えたという。両脇の人家と比べその巨大さに驚かされます。(前田憲司氏談)
当初、町中を曳いていた大山も、電線が引かれてからは巡航できなくなり、神社の前で組み立てたと聞いている。大山の時は、獅子舞や山番があるので“富士の牧狩り”とは札入れをしてどちらかを行った。“富士の牧狩り”は経費が掛かり、子供の練子と獅子をかぶる青年の確保に苦慮した。当日は町内の者が揃って四日市の町中を練った。源頼朝が、富士の裾野において巻狩りをした様を練りに再現したものです。
「旧四日市を語る」には、源頼朝・北条時政・大将役・方役・槍役・獅子・兎・猿役と格式が決まっていて、組役や町役が主役でした。一般は張り子の獅子や兎役ということに決まっていました。(封建的だったんですねェ)
“四日市祭”より 富士の牧狩りは現在に至っている。
“富士の牧狩り”は、“小山”や“釣り物”に対して“人練り”といいました。
明治40年
明治44年
さて、下総人さんにご指摘いただいた、浜田の“第二小学校(現:浜田小学校)移動の謎の続きでゴザイマス。
大正11年
明治8年に四日市学校(現 中部西小学校)より、浜田小学校として分離創立したとあります。
昭和5年 岡野繁松氏筆
明治40年5月発刊の“四日市案内”には、『濵田尋常小学校・・・濵田に在り。五学級、二百五十八名の生徒を有す。校長 小林?(王ヘンに三本川のような漢字)以下 職員五名。』とありました。第二小学校として旧東海道沿いに開設されたのは、「濵田にも小学校が必要だよね」というところから、比較的規模の小さい“分校”のようなものが造られたのではと想像できます。
昭和35年 門脇敦氏撮影
※ 下総人さんからご指摘をいただいたので、昭和36年当時の卒業アルバムを見たところ、右の鉄筋の校舎は36年以降の物でした。訂正いたします。