大名行列は、久六町と比丘尼町にあって、内容は異にしていました。
寛文年間
久六町(人練り)は、江戸へ向かうのぼりの行列。行列の最後尾に「頼朝さん」と称する馬上の少年が加わって居ました。行列は、片方の足を大きく上げて進むことで“早く行きたい”という気持ちを現したそうです。(なぜ、源頼朝が最後尾にいるのでしょうか?)
大正13年 足を前に挙げている 久六町の行列
最後尾の源 頼朝公
“四日市祭”のP.106<久六町 には~江戸へ向かう~>とあり、P.119 <明治42年の案内記では 久六町 ~引き行列と唱え~>とあります。記載に矛盾があるようです。因みに、明治の案内記に“比丘尼町”のことは“復元が立派である”ことしか触れていません。比丘尼町(人練り)の大名行列は、江戸から下ってくる江戸幕府時代の行列を模したものです。行列には駕籠が加わり“傘飛ばし”の芸が披露されます。片方の膝を曲げて、もう一方の足を後ろに挙げてから進むことで“江戸が名残惜しい”という気持ちを表しました。時代の復元が正確で風俗研究の好材料となっていました。“横濱五十年祭”で大喝采を得たとあります。<この練りは復興されています>(前田憲司氏談)
神社鳥居をくぐって練り込む行列。写真提供:前田憲司氏
諏訪神社の紋 立梶の葉がみえます
久六町の行列には、謎が多いようです。9月24日には、秋のお祭りの実行委員会があるので、お聞きできそうです。
浜田小学校(第二小学校)昭和36年卒業アルバムです。
東北の正門から、職員室を撮ってあります。真ん中から入ると東西の廊下で、戸を開けると職員室。その左は宿直室と2階ホールへと上がる階段、右は渡り廊下で、わかくさ教室(訂正:わかくさ学級)の棟へと繋がっていました。
左(東)の棟は教室が並んでいて、突き当り南側には、給食室と2階建ての教室がありました。