『ふるさと絵図』平成9年に四日市市立博物館が発行した絵地図であります。ここに湊浚渫工事の図がありました。
札ノ辻から東へ伊勢湾に向かうと、十里の渡しへ出ました。ところが蛇行して流れ出る阿瀬知川から運ばれてくる土砂が堆積して、港へ船が入れなくなってきました。そこで、浚渫工事(土砂さらえ)の必要が出てきたのです。
思案橋はまだ上部にあります
天保4年~10年(1833~39)の湊口付け替え工事の図です。ここにこう記してありました。“これによって今まで湊口のあった阿瀬知川は閉め切られ、新たな湊口がつくられた。この湊口は後の高砂町南側である。”図のくびれた部分であります。この時“思案橋”も橋ではなくなっていったと考えられます。
明治5年(1872)頃、稲葉三右衛門が四日市湊を修築工事する際の図です思案橋は何とか残されています(左下)
他の地図と比較の為、逆にします。納屋町の東の地先に燈明代が描かれています。燈明台の横に書かれた白い付箋は、掘割を造る場所を示していて、その両側に後の稲葉町と高砂町ができるのです。