難工事が続く四日市庭湊
安政元年(1854)6月15日午前1時ころ、大地震が襲った。安政の大地震である。九十郎(後の稲葉三右衛門)18才の折、四日市では、地震による火災が朝から夕刻まで続き、焼失62戸、潰れ家371戸、半壊347戸、半壊大破780戸、小破365戸、焼死人68人、怪我死人87人、怪我人 無数という大惨事が起きた。陣屋も潰れ、10の寺院も焼けたり潰れたりした。稲葉家は大した被害もなく、避難するに終わったが、浜辺一帯の地盤が二尺(約60cm)程沈下したため田畑に海水が流れ込んだ。そして、この年の11月には再び地震が起こり、野寿田新田(昌栄新田の別称)大手堤がことごとく崩れた。
翌2年4月、今度は高潮が襲来して修理中の野寿田新田大手堤を寸断して海水が流れ込む。こうして、海運に恵まれた伊勢の良港といわれた四日市庭湊も、幾多の困難を経てきたのであります。 つづく
野寿田新田(昌栄新田)が広がっていた現在の尾上町通り
通りの東には九鬼肥料屋さんが建つ
昌栄新田の一件から、下総人様からメールで紹介をいただきました。ご参考まで・・・
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=601