下の図は、下総人さんに教えていただいた「野寿田新田 開墾落成の図」(県史編纂グループ様)は、明治13年以前と推測できる。この絵図を見ると、野寿田新田(昌栄新田)は堤防に囲まれていて海と仕分けがされている。南東部に位置する池は“鰡(ぼら)池”と名がついていて“伊勢鯉”とも呼ばれて祝いの時に珍重された。
次の図は“野寿田新田 水中ニ属スル図”で点線の部分が堤防のあったところで中ほど上から下へ阿瀬知川がまっすぐ流れてきている。左の“大江川”が“大井の川”だろう。結構広い範囲に砂浜が出来てしまっている様子である。
次は明治28年の鳥観図(商業会議所発行)。稲葉三右衛門氏による旧港が完成している。砂浜の様子も分かる。マテガイが取れたとある。
これは明治40年の地図。稲葉三右衛門氏による港づくりが一段落し、県による第2次の港づくり計画が点線で示されている。地震や高潮、そして阿瀬知川から押し出される土砂との戦いは、四日市庭湊繁栄のための長年の戦いでもありました。