明治5年、稲葉三右衛門は、同志である田中武右衛門と共に、三重県参事宛てに工事許可の願いを出し、翌6年、県の内諾が出ると自己所有地への土砂の運搬から工事を始めた。しかし、工事規模の膨大さの為、田中武右衛門は脱落、三右衛門一人の難工事となる。
明治7年頃?修築工事風景
ようやく明治6年の暮れには波止場と燈明代を除く埋め立て工事が完成するが財力は尽きてしまい中断をやむなくされる。しかし、新しく出来た埋め立て地の稲葉町や高砂町には50戸ほどの人家が建ち並び、稲葉町には三菱汽船の支所ができるまでになり、工事の継続が急務となった。ここで県は事業の継続に乗り出そうとしたが、三右衛門は独力で行いたいと岐阜県高須町の兄に保証人を乞い、資金調達をして工事の継続を願い出た。しかし県はこの出願を退け、全工事の竣工迄棚上げにしてしまった。
稲葉三右衛門の肖像 四日市市制80周年記念 四日市のあゆみ より
明治9年3月、三右衛門は生活に困窮するも意志は固く、県を相手取って大阪上等裁判所へ上訴することになる。なぜ、県は稲葉三右衛門の工事続行をかたくなに許さなかったのだろうか? つづく
旧四日市港 潮吹き堤防がみえる
旧港に立つ三右衛門の記念碑