鈴鹿山脈の麓 宮妻峡谷を源流とする内部川は、足見川と合流して塩浜を抜け伊勢湾にそそぐ。その合流地点を采女郷と呼ばれ、古代の東海道が通る交通の要衝でもあった。その合流する地点の丘陵地に采女城の遺構が残されている。昨年4月に この城跡を訪れたが、今回はあすなろ鉄道 内部駅の延長として訪ねてみたいと思っている。
三重鉄道沿線案内より(大正期)
采女城主の後藤家は源氏に仕えていたが、幕府滅亡後の南北朝時代は、北勢四十八家の中に数えられ、采女七郷を代々にわたり納めていた。
「采女城跡保存会編」図書館蔵
やがて豊臣秀吉や織田信長による天下統一の動きが出始め、戦国時代は終わりを告げる。織田信長は京都上洛に先立ち、永禄4年(1561年)から5年の4度にわたって伊勢に侵攻、『布留屋草子』によると“永禄11年(1568年)信長と戦い落城す”とある。
平成20年代の空撮(采女七郷・推定)
また他説には“元亀3年(1572年)、亀山の関 盛信が所業を信長に咎められ勘当を受けた。これにより関家の与力(味方)であった後藤家をはじめとする16家の侍が、信長の三男である神戸信孝に付くか浪人した”とあり、こちらの説が最も有力とされている。つまり、落城よりも城を追われた可能性が高いのだ。
城館入り口に立つ案内図 ここから城跡へと上る
しかし、地元では落城説の方が根強く、当時の城主であった後藤藤勝は落城時に割腹、千奈姫は本丸跡に残る深井戸に身を投げたと伝えられ、この古井戸から夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくると語り伝えられている。
本丸跡に残る古井戸
そして、この落城説には後日譚が残されていました。