明治40年5月15日 南町在住の伊藤善太郎氏は、市内の学生向きに“四日市史”を発行。ここに“四日市祭り”のことが記録されているので紹介します。
本町の水谷宜夫氏から借り受けました
古来より諏訪神社の祭りである“四日市祭り”は7月27日でしたが、明治期に太陽暦になって8月27日となり、明治14年に起きた疫病の流行(明治12年に県下でコレラが流行したことか?コレラは経口感染で、水や食べ物から感染する)で9月27日に変更されました。四日市祭りは、大山 小山の邌物(ねりもの)(山車とは言われませんでした)が出されて、遠方 近在からの多くの人で賑わったのです。
旧町名
9月26日、四日市祭りは、札ノ辻の陣屋前に邌物が次々と集まり演技を披露するところ(試楽=しがく)から始まります。陣屋は当時の尋常高等小学校の処で、表門は竪町 佐伯又太郎氏の西側にあたるとありました。
西町の大山
四辻に集まる邌りは、西町組(西町、久六町、比丘尼町)・北町組(北町、川原町)・南町組(南町、上新町)・竪町組(竪町、魚町)・中町組(西中町、東中町、中新町、四ツ谷新町)・濱町組(濱町、下新町、新丁、北條町)・納屋町組(蔵町、北納屋町、中納屋町、桶之町、袋町、南納屋町)で西方面から順次 邌り込み、陣屋前で演技が披露されました。四日市外の新田町と浜田は、陣屋前への練り込みはなかったようです。
北町の大山(上では獅子舞が奉納されました)
西町・北町・浜田町・新田町の各大山は、その邌りがあまりにも巨大であったため(電柱下を潜れなかった)、それぞれの町での試楽(しがく)となりましたが、新田町の大山だけは辻まで曳き出されました。これは北町に対して訪問の禮をする意味で行われたそうです。
浜田の大山(残念ながら新田町の写真は残されていません)
今気づきましたが“禮”の変換に“邌”の字が検索されました。諏方神社に対して禮=礼を述べることが“邌り(ねり)”なのでしょう。どなたかお教えいただければと思いますが、むつかしい漢字に親しみがわきます。