終戦後間もない昭和22年、新田町(今の諏訪町)に“ラジオ劇場”という実演劇場が出来た。昭和20年の空襲を経てきた日本は映画をつくれる状態ではなかった。従って、役者は地方へ流れ出た。地方の田舎へ行けば食べるものにもありつけたし歓迎もしてくれた。
昭和30年公開 浅丘ルリ子の初デビュー作 日活初めてのカラー作品だった
そして当時情報伝達と娯楽に大きなウエイトを占めていたラジオ放送にあやかり実演を主にした“ラジオ劇場”という名前でスタートした。800人収容の大劇場である。
マップ左側 昭和43年 日活映劇 四日市経営(研)となっている どういう意味か?西に四日市松映が建つ
日活前、西に建つ四日市松竹横とは雨よけの屋根がついていて薄暗い雰囲気だった。中央から入って右に二階へ上がる階段があり、その下に売店があった。そこで売っているおまけ付きのキャラメルが街では買えなかったので、もぎりのお姉さんに断わって劇場に入り、買い求めたことがある。
マップ右 昭和53年 四日市松竹は三重劇経営者による四日市宝塚劇場に変わっている 日活映劇隣の自転車預かり所は健在
劇場の北、呉服町寄りに自転車置き場があった。自転車が並ぶ奥は畳敷きの上がり框になっていて、映画館の大将がでんと鎮座していた。幼少の私は、お客さんに連れられて行き、そこでお饅頭をいただいた。甘くておいしかった。昭和29年頃のことだ。当時の映画館の勢いが感じられる思い出の風景だった。