GGシニアさんにアップしていただきました。今回は日活劇場の巻でゴザイマス。ご覧ください!
(2) 「四日市の映画館巡り/四日市日活劇場」 - YouTube
“立場”とは、宿場と宿場の間の休憩所のこと、人足が杖を立てて休むことから言われた。
富田南町の料理旅館“四日市屋”(昭和48年現在)
徳川家康の命により東海道が生まれたのは慶長6年(1601)のことである。道の両側には松を植え、宿に入ると道路を曲げて街並みを多く作って密集させ、産業と文化の発展をはかり、また交通の要所とした。
特に宿場には本陣・脇本陣を置いて大名の旅宿とし、また問屋があって、大名の荷物を中継輸送していた。当時の運搬や道行は、肩によるか、馬か、駕籠で、その賃金も平地、山路と異なり、適当に定められていたが、宿駅の札場には掲示され、かたく守らせていた。
西富田 三幸毛糸紡績富田工場前に残っていた東海道の松
東海道五十三駅のうち勢州内には、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下の七駅を置き、富田は“立場(建場)”と云い、桑名二里十七町、四日市へ一里八町の中間に位置して「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれていた。街道筋は旅籠が軒を並べ、店頭では名物の焼蛤を売っていた。
富田には商家や旅籠が軒を連ねていて、“間の宿”の性格上茶店の役目も果たしていた。そして、名物が必要とされていたのだ。安倍川(静岡県)の「安倍川餅」、鞠子(静岡県)の「とろろ汁」、草津(滋賀県)の「うばが餅」などが現在にも残されているが、富田立場は、北伊勢の特産品である蛤を登場させることとなった。当時は漁獲量も多く、桑名の時雨蛤と共に富田の焼蛤は、美味なことは日本一と云われ、軒を並べた旅籠の店頭では客を呼ぶ声と蛤を焼く芳香が特有の雰囲気をつくっていた。
焼蛤は、炭火の上に松(訂正:松笠)を乗せ、その上に目を切った蛤を並べ団扇でパタパタ煽って(あおって)焼く。この蛤は桑名から富田方面の海岸線で多く獲れた。
「富田をさぐる」より 生川益也 筆