1号線を北へ、朝明川を渡って西へ川沿いに走ると旧東海道と交わる。(先日Y氏宅へお邪魔した折、常夜灯の話をした。帰りに寄ろうと思っていたが、急いでいたので豊田橋で折り返し帰ってきてしまった。又、出掛けようと思う。)
文:生川益也・写真:水谷稔 昭和48年発行
客引き女
朝明川を桑名側へ渡ると、堤に“弘化三年(1846)に建てられた多賀大社の常夜灯が立っている。(現在は、柿の交差点、北勢バイパスの高架の下にぽつんと立っている。)嘗てこの通りを、員弁の阿下喜から藤原の山口を通り、鞍掛峠を越えて六里(24km)の山道を多賀までたどる、東海道より多賀参りの間道に入る入口となっていた。(知ラナンダ)この常夜灯の西に二軒、東に一軒と三軒の茶屋が建っていた。
春から夏になると、渡ってくる風も心地よく、鈴鹿連山の見渡せる見晴らしの良い場所である。この朝明川橋は旅人にとって関所のようなところであり、橋を渡らなければ旅を続けることが叶わなかった。逃げることのできないこの橋に目をつけたのが富田の旅籠で、各店はここまで客引き女を出していた。
尾張屋(其角が“蛤の焼かれて啼くや 郭公(ほととぎす)”の句を尾張屋に残している、現在、富田浜に残る)・中島屋(富田西町、明治中期まで旅籠を営業、店頭で焼き蛤を焼いていた)・四日市屋(富田南町の高級老舗旅館)・吾妻屋(富田南町)などから若い女中連中がこの橋まで出向くことが日課となっていた。
赤い前掛けに白く屋号を染め抜き、木版刷りの簡単な案内書を手渡したり、うまく話し込んだりして客を引く、熾烈な客引き合戦を展開していたようである。だから平気で噓も云い「部屋の中から松越しに海がみえる」とか「絶対に相部屋にしません」とか「家は総ヒノキで、女中は全部若くてきれいな娘バッカり」とか。
よくもまあこんなことを、ヌケヌケといったものだと、旅人も後になって苦笑するほど無茶苦茶なことが多かった。客引き女は「荷物をお持ちしましょう」と商談が成立して荷物を取ってしまえば、もうこちらのもの・・・となるのである。私の友人が伊豆へ行った折、「富士山が見える」という客引きについて行ったら、ナルホド、風呂に富士山の絵が描いてあった。(そういえば、私が幼少期に箱根で「テレビ部屋がある」と呼び止められ、旅館に行ったら入ってすぐの玄関横にテレビが飾ってあった。すぐに出たが、休憩料を要求された苦い思い出である。)
また、この朝明川は、員弁、桑名を縄張りに持つ穴太(あのう)の徳と、四日市、富田方面を縄張りに持つ伊勢德との境界線でもあった。その関係で、富田の旅籠連中が朝明川まで出向いたと言われている。荒神山の対決は、穴太の徳と神戸の長吉の縄張り争いが原因だった。