富田鯨船の流し唄 全四十句中四句に“お杉・お玉”という大道芸人が登場する。
あいの山通ればエー お杉やお玉やヤアーセ
お杉・お玉が手で招く そっちも こっちも
ガッテン ジャアーセー
お杉・お玉が百姓の子ならエー 金の橋かけ 宮川ヤアーセ
お杉・お玉に銭百投げた そっちも こっちも
ガッテン ジャアーセー
歌麿
二人は、いつの頃からか富田の辻で小屋を建て、絹の着物を着て遊女の如く着飾り、三味線を弾きながら悲しい調子の歌(間の山節)を歌っては、参宮道を通る旅人から投げ銭を取っていた。
夕べあしたの鐘の声 寂滅為楽(じゃくめついらく)とひびけども 聞いて驚く人もなし 花は散りても春は咲く 鳥は古巣に帰れども 生きて帰らぬ死出の旅・・・
“好色一代男”の井原西鶴(元禄6年没)は、“織留”にこう書いている。
「毎日の参詣あだぼれしてここに立ちどまり、前なる真紅の網の目より顔のうちをねらいすまして銭なげつけるに、一度も当たる人なし」三味線を弾きながら、撥(ばち)でもって飛んでくる投げ銭をかわしていた。
国貞
この、元禄時代(1688〜1704)のお杉とお玉は初代であって、鯨船の唄に登場するお杉とお玉は、後代の“お鶴・お市”のことである。伊勢参りの全盛期には、全国に知れ渡っていて、“東海道中膝栗毛”や、国貞 歌麿の浮世絵にも登場している。ということは文化・文政の頃になろうか。 富田をさぐる より