昭和58年 文化展望 創刊号から 椙山先生の十二間道路
関西鉄道の四日市驛から相生橋まで十二間道路と呼ばれ、幅広のメインストリートが出来て、高砂町にある四日市港(旧港)市の中心部とを一直線に結んでいた。この十二間道路の中間あたりに第三小学校(現:納屋小学校)の門前通りが交差しており(現:名四国道)、それより西方両側を西袋町、東方両側を東袋町と呼んで、前者は倭姫命という優雅な邌りを、後者は鯨船正一丸を四日市祭りに演じていた。
この写真は、昭和初期に道の中央部をアスファルトの舗装中で、彼方に相生橋の欄干がみえる。
この写真は“文化展望”が創刊された昭和58年、同じ位置から撮られたものである。
明治43年に実施された市の四大事業の一つに、諏訪新道の近代化があった。これは、諏方神社から沖の島、四日市驛間道路の近代化と、更に高砂町まで延長する計画で、新築港胎動への始まりを意味するものであった。
明治期に諏訪神社~四日市驛間が整備され・・・(明治44年地図)
大正11年の地図では“臨港道路計画線”となっている