さて、鈴鹿山麓のすそ野を下り竹谷川(たけたにがわ)沿いに進むと、まっすぐな道路に二本の石柱が立つ場所に到着しました。Kさんは『途中特に気が付いたことを順を追って書き留めていくと 潤田の凱旋門を出て、旧千種街道を桜並木に沿うて下っていく・・・。』と凱旋門のことはこのように記録してありました。
潤田の凱旋門 この凱旋門は、日露戦争から戻った兵隊を迎えるために、明治38年10月石工伊藤文助により花崗岩(御影石)で造られました。南側の門柱の表には祝凱旋 裏側には明治37年、8年戦役記念 北側の門柱の表には陸海軍、裏側には明治38年10月建立千種村 と刻まれています。昭和20年の終戦まで、出征兵士を村はずれの凱旋門まで『万歳!』で送りました。戦意高揚のための凱旋門だったのです。門の間に組まれた日本の日の丸の下を、久居の歩兵第33連隊に行く人も通りました。そして、戦死者の無言の遺骨も悲しみの中ここで迎えました。
敗戦後、占領軍の車両がこの辺りを回り忠魂碑や表忠碑を壊すというので、壊される前に村が倒して表字を下にして隠しました。
倒れたまま放置されていた凱旋門は、昭和54年に石工の道具箱の中から元の源字が発見されました。郷土資料館で展示したことをきっかけに、昭和55年道路大改修に伴い、今日の姿に復旧されました。 令和2年2月吉日建立 建立者 千種地区区長会
ここにも、過去の歴史の爪痕が残されています。日露戦争、太平洋戦争、敗戦 そして進駐軍と・・・。この門を通った多くの人々を、時の流れの中で、二本の石柱は 見つめ続けてきたのです。